第32-1話 〜誘うものゼルヴァ〜
清々しい朝がやって来た。
小鳥の囀り、木々を揺らす風の音。
乾いた陽射しは、クロエの心を爽やかにした。
「はあ、よく寝たね。これで思い残すことはないさ。ね?」
と、ピュチェリを撫でながら微笑むクロエ。
しかし、こんな晴れた日に暗鬱な、もう1人のクロエがいた。
誰が話しかけても、プィっとそっぽを向く始末。
「クロエ、いい加減になさい!クロエさんは旅に出る用事があるのよ」
と、諭す母親の言葉も、その耳が跳ね返した。
「知らない!ずっと居ると思ったもん。ピュチェリだってここに居たいって言ってるし」
勝手に決めつけるのは幼さの特権だろう。
「ほら、聞き分けのないことばかり言って、みなさんを困らせないの」
と、母の言葉。
別段、人を困らせたい訳ではない。
そう思い泣き出すおチビクロエ。
そこにクロエが、
「うーん、困ったねぇ。何か……」
と、ベッドの空いたところに目が留まるクロエは優しげに、
「ねぇ、クロエ。私の用事が済んだらさ、ベラの所へ一緒に行こうよ?」
それに食いつくおチビ、
「いつ、ねぇいつ?本当に?」
と、クロエの膝に座りその顔を覗き込む。
そんなおチビの髪をそっと梳かすクロエ。
その二人を見て母親は、
(あの魔王が娘に……)
と、ただ立ち尽くしていた。
笑顔になるおチビを見て、ベラもきっと心待ちにしているだろうなと、白い壁に二人の姿を想い描くクロエだった。
そして、それはやはりベラの持ち前の優しさにも由来していた。
(アンタなら姉さんのとこでもやっていけるわよね、ベラ)
と、彼女の人柄を思い出し微笑むのだった。
ようやくクロエとピュチェリを解放したおチビ。
堪えた涙ではなく、約束を胸に小さな手を大きく振り続けるのだった。
クロエの待つヴァルミナ平原に向かう、大剣レイキス。
道中、終始揺られながら、
(昨日の余韻も憂いもないな)
と、この大男の心を見透かし、その背で揺れの心地よさに浸るのだった。
その大男リアンには不安も心残りさえも、何一つなかった。
(リセルは自分の意思で生きていってくれる)
と、そう思えたことが、顔を見に行った何よりの成果だった。
そしてあのリセルの、エリー譲りの口調が今も頭を離れず、リアンの顔と心を綻ばせていた。
(全く、本人を見てもいないのに、ああも似るものなのか)
壮絶な日々、受けたあらゆる痛みをかき消す大きな力が、あの笑顔にはあった。
しかしまたあの日が、リアンの中に蠢く記憶が甦るのだった——
あの剣術一家に復讐を終えた十八歳のリアン。
その後は住む所もなく路地を彷徨った。
(これでは野良犬だな?デクの時の方がまだいい暮らしだったんじゃないか)
と、今の自分を嘲笑う日々が続いていた。
そんなある日、
「ふ、市場か、食い物はあんなに有るのに……」
と、金も無くただそれを、妬ましく眺めることしかできなかった。
そんなリアンの視線に入り込むものがあった。
止まる足に、自分でも分かるほどの手の震え。
——その感覚に
記憶が——
全てを焼き滅ぼす業火。
その中から必死に手を伸ばす母の声が、
この胸に飛び散った父の血の温もりが、
喉を焼くあの黒い煙の味が、
目の前の男を、
『あの男だ、アイツだっ』
と告げていた。
リアンの思いの中で、
パリンっ、
と軽い音が鳴った。
それはまるで薄いガラスが割れる様な音だった。
しかし、その音の軽さとは裏腹に、
「やってやる、こいつだけは」
と、強い殺意がメラメラと燃え盛るのだった。
(どうせなら)
と、あの略奪の惨状を生んだこの男の仲間ごと——
そう思いその跡をつけていくのだった。
その男は市場の通りを離れ、丘へと歩いていった。
時折、すれ違う人から挨拶を受け、話し込むこともあった。
そんな些細な障害も、今のリアンにとっては大きな苛立ちとなった。
次第に舌打ちが増える。
(まだか、いつまで喋っているんだ。日が暮れてしまう)
腹で呻くリアン。
しかし、彼は間違っていた。
この明るい中で斬り込むより、暗い方が暗殺者にとっては有利だということを見落としていた。
図らずもリアンに加担してくれる通行人たち。
そして、その男がたどり着いたのは、丘の上に広がる兵の駐屯地だった。
一応格好ばかりの門を成している、一対の木の杭。
その間を通って進むその男に、
「アルディス中尉」
と、門番らしき兵が敬礼をする。
それを見たのかさえ疑わしいアルディス。そのまま素通りして行く。
それを離れた所で見つめるリアン。
と、その鼻にいい匂いが舞い込んで来た。
(飯時か?ちょうどいいな)
と、飯に気が緩んだ所を狙おうという算段だった。
各テントに配られる食事。
先ほどからの観察によると、テントには其々4〜5人の兵が詰めている様だった。
(どっからがいいか——)
テントの立地を隈なく見回すのだった。
まず、目に留まるのはやはり門番だった。
門番に一番近い木陰に移動するリアン。
わざと視線を外し、気の流れを逸らすのだった。




