第16-1話 〜ひとの引きずるもの〜
そろそろノルヴィエルにもあの赤い花が咲いてもいい頃か?
淡く透き通ったその花びらは、儚さと麗しさを醸し出すように、ひっそりと咲いていた。
しかし多くの人はその花を見たことが無い。
——気づかなかっただけなのか
こんな可憐な花なのに……
——アラコール
花を愛でる心さえ持ち合わせていない者が集まる場所。
花が咲く季節の到来もなく、その地面には常に腐葉が埋め尽くし、その泥濘を覆い隠していた。
厚い仮面が心を見えなくするように……
カツッ、カツッ——
鏡のように磨きあげられた大理石にヒールの乾いた音。
その響きは男たちの背に冷たいものを感じさせた。
そこに現れたのは、このサングィナトーレスで“褐色の夜叉”と畏怖されるテオドラだった。
遠くから獲物を狙う猛禽類のような鋭い眼光。
わずかに開く口元には、抑えきれない苛立ちが常に滲んでいた。
「ガルマはおいでか?」
テオドラの遠慮のない声が聖堂に響いた。
足音で彼女の”襲来”を感知していたアダムノア。
その言葉をやり過ごそうと、オルヴェウス像に一心に祈るフリをした。
「ふ、聞こえないのならいっそのこと取ってやろうか?その耳を」
と、姑息なアダムノアに業を煮やすテオドラ。
本当にやりかねない彼女の言葉に、慌てて振り返るアダムノア。
本来なら神オルヴェウスの神託を賜る立場にあるアダムノアの方が数段上なのだが?
「おお、これはこれはテオドラ卿、お戻りになられたのですか?ヴァルグラム様にお目通りですかな?」
役職ではなく名前で呼ぶ所が、自分は総督に近い存在だと誇張している証だ。
そして格下に敬称を付けるのが、テオドラが最も軽蔑するタネだった。
くどくどしく卑屈な言葉を聞くと彼女は決まって、
(本当にお前には付いているのか?)
と、その股ぐらに目がいってしまうのだった。
そして、そんな問いには答えないテオドラの鷹のような目に怖気立つ彼は、総督にお目通りの承諾を渋々取りに行くのだった。
そんなアダムノアの脳裏には、あの一件がまだ突き刺さっていた。
それは、総督直属近衛団・プレアドリアンのカザムが無惨に殺された件だった。
——激しい雷雨となった
吸血鬼の集団がこのサングィナトーレスに向かっているとの報告を受け、テオドラの部隊にその迎撃命令が降りた。
それを知ったアダムノアは、総督のヴァルグラムに近衛兵の出兵を懇願した。
それは息子のカザムに手柄を立てさせるためだった。
しかし自軍だけで手に余る任務、そこに加勢などテオドラにとっては屈辱でしかなかった。
最後の雨はいつだったろうか?
久しぶりの雨が、薄汚れた雑木林の垢をようやく洗い流すのだった。
テオドラたちは、泥濘んだ坂を登り丘の上に配置した。
激しい風、大粒の雨。
目を拭いながら、岩陰に身を潜める兵たち。
ただひとり、嵐に正面から立ち向かうように崖に立つ姿が……
——暗い闇に轟々と唸る雷鳴
豪雨に光る美しい曲線、その雷光が辿った青い輪郭が、
天に剣を掲げた。
それに誘われた吸血鬼たちは、一斉に降下し群がっていった。
再び唸りを上げる雷霆に光を放つ剣。
その青い光の中に十三の吸血鬼の魂は消えていった。
またしても空に流れる雷光。
それが再び描いた青い曲線が、
「引き上げだ!」
と、激しい嵐にも飲まれないテオドラの声を放った。
すると、大仰しくアダムノアのモルグダース家の旗印を掲げた一団が、その丘に一斉に降り立った。
「ここからはこのカザム=モルグダースが引き受ける。早々に立ち去られよ!」
聞こえはいいが、他人の功績を奪う行為だった。
「ふん、喜びのあと……愉悦にまみれて眠る女を奪うが如きはアダムノアのガキか?」
華々しい登場を演出したつもりが、惨めにも鼻柱を挫かれることとなったカザム。
我が非は認めていても、その野心に勝るものはなかった。




