◯監査のお仕事 実地検査その2
「これはもう実地検査っていう概念じゃないんじゃないの?」
先だってうろうろした路地からそんなに離れていないビルを前に、ナツメは一人呟く。陽が完全に暮れたがまだその残滓が残る時間帯。
インカムマイク、ショートジャケットを羽織り、コンバットスーツを身に纏ったナツメ。
「いやいや、必要があれば監査官を派遣することができるって規則やから」
無線越しにシンが軽く言う。
「シンさん、でもその規則は、第45条の実地監査の例外で、上長が特に必要と認めた時という条件付きですよ、今回は該当しないと思います」
別の無線越しにティオが言う。
知ってるわそんなもん。とシンが答える。
「ええか、ティオがもう回線繋いで、そのビルのカメラ全部抑えてるから、全員の顔のデータは抑えてあるわ、知っとるやつも居れば知らんやつもおるわな、そら新興組織やからな。これからは彼らの取引に偶然こちらも居合わせればええわけよ」
それはやっぱり実地検査って言わないんじゃない?とナツメは思う。適正な捜査とか言ってる我々が真逆のそれをここでやる。良いね。最高にロックだ。
ここはそれほど高いビルではないが上層階に落ち着いた夜の店がある。何人か見張りのような人間が立っている。
「ティオの言うとおり、検査に該当せんけどな。転がしたチャンスは拾うことにすんねん。なんでも現行犯は何よりの証拠やからな。しかも不正の現場や。文句言われる筋合いあらへん」
シンが意気揚々と話す様に少し気圧される、シンがトーンを変える。
「復帰早々でまさかの現場仕事って荒療治やけど、堪忍してくれ」
何を言うのかと思ったらそんなことか。
「なんですか、今更。私もノリノリで準備しましから大丈夫ですよ。人事の鼻をあかすんですから」
配属二日目のそのセリフからまだ数週間とたっていないが、我ながらずいぶんと馴染んだものだ。そう、目指す先のスタートラインにすら今はまだ立っていない。
「でも、あれですよね、今日空振りなら素直に撤退ですよね?あと実は相沢の囮捜査だったってわけじゃ無いですよね?」
ビルを眺めながら何度目かの確認をする。シンは、そらそうや、とだけ答える。引き際がわかっている人で助かる。
「あ、来ました。相沢さんです、ナツメさんも一緒です」
ティオから無線が入る。彼女も前回大変な目に遭ったのに、今回も一人で挑んでいる。体術は全くできないのに。送り出す、送り出されるの信頼関係はすでに成立していると言うことか。
4階建てのこじんまりとしたビルの3階に、二人は手を繋いで歩いている。ただ、カップルのようと言うより、相沢が優木の手を引いていて、引率に近い。
「優木さんはずいぶんとお疲れのようです、目に力がありません」
例の蕩けきったあの目つきだろうね、ティオからはそう言うふうに見えるんだ。
「係長は映像見えてるの?」
せや、見えてる。との小さな返事。
「ティオとおんなじ感想?」
確認する。
「いや、あん時の感じじゃないな。虚ろって言うのが正しいかも」
言い終わる直前に、あ?なんやこんな時にと言いシンは私物の電話を取る。
「は?あ、そうか、わかった、ありがとうな、それむっちゃ助かるわ。ありがとうな」
電話を切り、息を吐く。そして告げる。
「二人とも驚くなよ、優木ハルカが退職届出してるわ。大胆にも程があるぞ、このあまちゃんが」
ナツメの背筋が凍る。体温が下がる感覚を覚える。虚ろな優木ハルカ、引率する相沢、そして優木は職場を辞める。怒りを発する前に改めて確認する。
「ってことは今日はもう突入でいいよね、優木ハルカはマフィアに譲られるってことよね。今日はその現場ってわけで良いよね」
無線の先でティオの息を呑む声が聞こえる。ナツメ自身は自分で言葉にするごとに自身の中から怒りと痛みが込み上げてくる、ゾワゾワする首筋、熱くなる頭、怒りに伴って少し涙が出て来る。
「俺もそう思う、ただな現行犯の証拠や、それが大事や、間違ったらしまいやぞ。慌てんな。ええな」
シン自身も言い聞かせるように言う。そして何やらバタバタしてる。
「俺も行くわ、ナツメ、待っとってや」
ナツメは了解、と言って無線を切る。切った直後に自身に背後に人の気配を感じ振り返る。
しまった。自身の真ん前に人がいた。ただしそいつからの敵意を感じない。メリハリの効いたスタイルの女性、青髪のロングストレート。改めて目の前にあるものを確認する。このいつも若干の苛つきを覚える胸部の持ち主は多分あの子だ。
「あ、やっぱり、ナツメさんじゃん」
その胸部の持ち主、葛城エリは学校で会った先輩に声をかけるようなトーンで呼びかける。
こっちの事情も知らないで。と心の中で蠢く激情を抑えて、こちら側からすれば意外な存在のエリに対して言葉を放つ。
「エリ、どうしてここに?あなた一人?それとも麻取で何か掴んだ?」
もちろん無線は繋いである。無線の向こうでシンが慌てているようだ。自分に対してとにかく待てや、と言っている。しかし今は、この娘の回答の方が気になる。
「ここにいる新興組織が、新しい薬を流してるって話よ」
あんまり言いたくないけどお付き合いでね。と肩をすくめる。
お付き合い?と疑問符が浮かぶが、彼女の交友関係を思い出し納得する。黒龍会からのタレコミだろう。そう、大変そうね。とだけ返す。こちら返答に対して、そうなのよ、危ない橋渡ってるんですよ。と、言って続ける。
「今日に至っては、明らかに使ってる奴がいる。って言う話を聞いちゃって、様子を見に来たのよ、あの二人組の後ろ、あの子は多分使ってるわ」
目線を送る、そこにはビルの外階段をゆっくり登る、相沢と優木。あぁ、やっぱりか。相沢に対して怒りが改めて込み上げる。
こちらの態度を察して、少し目が鋭くなるエリ。元バディの姉とは違うグレーの瞳がより威圧感を与える。彼女的には威圧してるつもりはないんだろうけどね。
「ところでさ、ナツメさんがなんでここに?」
エリの質問を手で静止して、無線でティオに呼びかける。
「ティオ。二人が入る部屋を見逃さないで、あと、エリも無線に入れるよ。良いね」
返事を聞く前に、エリには指で無線の周波数を伝える。エリは無言で頷く。
「ほんまにもう、君らはもう、ほんまにぃ」
また真後ろから声がする、無線とハウリングしている。シンだった、銀髪ストレートヘアを高い位置でまとめ、若干のつり目の黒い瞳の女性スタイルのシンがそこにいた、まだ息が上がっているのか、肩で息をしている。顔を上げ心配そうにこちらを見ている。
「何よ、その格好」
彼女の真剣な表情とは裏腹に、エリが思わずニヤつく。それもそのはず、シンの格好といえば、ブカブカの男物のコンバットスーツ腕と裾を捲り上げて、なんとかそれにおさまっているだけだった。
「うるさいわ、変身がコントロール出来へんのやからこうするしかないねん」
そのシンからの一言で納得した。女性のサイズ感の装備なら間違いなく、元のシンでは入らない。もし万が一、突入中に変身することがあったら、大変なことになるだろう。エリの若干の嘲笑など気にせずナツメを見据えて質問する。
「それよりもや、ナツメ。何ともないか?」
なんのことだかさっぱりわからないがどうやら心配されているらしい。
「何がですか?」
素直に聞く。シンがエリの方にも目線を向けて一瞬迷う。視線の先のエリも見当つかないという感じで、何よ?と、言うだけだった。
「いや、気ににしすぎだったらええねんけどさ、このままやとエリと二人で突入やんか」
だからどうした?
「だから、変に思い出したりせぇへんかなって、アレやったら、私とエリで先に入って後からでも」
あぁ、そう言うことか。要はフラッシュバックしないか?してないか?と言う確認か。気付きもしなかった。そういう可能性もあるのか。
「エリはエリ、エマはエマでしょ?一緒なわけないじゃん。大丈夫ですよ」
さっきエリに周波数を教えた時点で、二人で突入するつもりだったし、突入のシュミレートもしている。それで変なノイズが走ったりしてない。だってエリはエリだもの。
良い意味でも悪い意味でも察しが良い係長だな。仮に思い出すならそれはそれで構わない。エリの方へ視線を向けて言う。
「何も問題ないわよね」
エリは黙ってうなづく。
「逆に係長を後詰めで良いですか、その格好ですし、良ければ私が最初でエリがその次。制圧手前で係長も入ってくる。こんな感じでいいですね」
自分のシュミレートを提案する、係長はまた少し迷ってから答える。
「まぁ何にもないならそれでええけどな」
じゃあそれで、と言おうとした時にエリが横から言う。
「私が先頭、ナツメさんがその次、復帰初戦で戦闘はやりすぎ、シンも気遣いの方向性が違うんじゃない?バカじゃないの?」
バカって言った。ただ言われた係長はどこ吹く風で返す。
「せやな、ほな、エリ先頭頼めるか」
「いいわよ、こっちはあの使用者を抑えたいから、薬物使用の現行犯で良いわよね?」
シンの無反応に対してエリも特段のリアクションもせずに返す。ただ彼女の中の別であって最初からある疑問について回答していないので、その催促をされる。
「で、なんでここに監査係が全員いるの?」
エリは多分あの二人が身内だと気づいて無いんだ。係長がため息混じりに答える。
「あの二人は身内や、二人とも刑事部の新人、男が相沢。女が優木」
あー、と、思考が途切れる声を出すエリ。そしてすぐに合点が言ったようだ、明らかに不機嫌になった。
「あの相沢か、ずいぶんとバカなマネをしてるじゃない」
ナツメ目線を向ける。
「ナツメさん、あいつを任せて良いかな、私は私の被疑者を捕まえるから」
エリは大きく息を吐く。彼女も相沢に対して怒りを抱いたのだろう。言葉の裏側にはナツメに対して、露払いは任せておけという意図があるように感じた。
「そうね、ありがとう」
意図を汲み礼を言う。そのタイミングを見計らったかのように、ティオからの無線が入る。
「皆さん。二人が部屋に入りました、部屋の中にはマフィアの幹部も居ます」
少し間が空いて、ティオが続ける。
「音声も聞こえますが、音楽が大きくて全然聴き取れません」
すいません、と彼女が続ける。
「ええよ、かまへん」
シンが答える。
「あ、トランクが出てきました、中身は現金ですね」
ティオが勤めて機械的に報告する。
「アレやな、行くとこまで行くか」
要はマフィア幹部まで現行犯で行くということだ。エリ、ナツメがそれぞれうなづく。
「ほな行くか、エリ、ナツメ、最後に私。それぞれ、優木、相沢、幹部。そこを抑えよか」
シンが近くの非常ベルのボタンを押す。激しく防災ベルやサイレンが響く。
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あ、防災ベルがなりましたね。えっとじゃあ、消火スプリンクラーを起動してっと。これで、もう少し時間をかけれますね。シンさんなんかあんなにダボダボだから、濡れたら余計大変なことになるんじゃないかなぁ。防火扉は1分後でしたね。ある程度人が出てからで大丈夫と言うことでだったはず。それをしたら私はここを離れて、皆さんを迎えに行く準備ですね、着替えが要りますね。あれ?でも先に相沢さんや優木さんはどうしましょう、あの人たちの着替えは用意してないですね。とりあえず署に連れ帰る方が良いでしょうか?
あ、見張の人はエリさんに促されて逃げてますね、誤報なら水なんて出ないわよ!なんて演技が上手ですね。シンさん曰く、ゲリラ的に仕掛けるから発砲許可なんてないからな。だから良い感じで人を減らす必要がある。演技とはそういうところで生きるのですね。この前はイレギュラーでバレてしまいましたが、またチャンスがあれば頑張ろう。結構人が出ましたね、では、防火扉をとじて、お迎えに行きましょう。
それにしても。感情とはよくわからないものです、いまここで役に立っているという自覚はあるのですが、寂しさを感じます。これが疎外感という物なのでしょうか。そして、突入する三人とも、相沢さんへの怒りをお持ちですが、皆さんそれぞれ不安も抱えています。シンとエリさんはナツメさんに、ナツメさんはナツメさん自信に。
それがわかるようになれば、ご一緒させてもらえるのでしょうか。お役に立ちたいです。
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まぁなんと言うか、この新人刑事はなんとまぁ、哀れな子なんだろう。マフィアの幹部はそう思う、自分の年齢の三分の一くらいの若人に対して流石に憐れみの目線を送る。
安直に誘いに乗り、おだてられ良い気になって取り返しのつかないところまであっという間に落ちてきた。治安組織の切り崩しは慣れた物だが、ここまで歯応えがないのは初めてだ。それだ上手くやったのだ、とは到底思えない。タバコに火をつけ、たまにおだてて彼の自尊心を満たしてやる。
これに付き合わされたこの娘は可哀想だが、これは自分で落ちてきたのだから仕方ない。薬のせいもあるのかとても爛れているが、満足げな顔をしている。
手を握ったりひらいたりしている様は、恋人と手を繋いでいる幻覚を見ているのだろうか。そういう感覚はとうの昔に忘れてきた。
ここじゃなきゃ、こうじゃなきゃ、良い景色かもしれんな。
そう思い、まだ少ししか吸っていないタバコの火を消す。悪い癖だ、イライラするとすぐ消して新しいのに火をつけてしまう。消したタバコを吸い直す気にはなれず、新しくタバコを出し、火をつけようとしたその時だった。防災ベルが鳴り、少し遅れてスプリンクラーが作動する。
「相手のレベルが低いと自分も合わせて低くなっちまうな」
けたたましくなるベルと大量の水のシャワーで都合よく相手には聞こえない愚痴を吐く。
まぁでも、この水でこの娘の目が覚めると良いかもしれんがな。
感傷に浸りつつ、部下の一人を捕まえる。
「おい、予定通り、お前が代わりだ。あとは頼んだぞ」
そう言って他の客と共に姿を消した。
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三人は入口に向けて走る。見張が自分たちを見つけて逡巡する。
「火事よ!逃げて!」
エリが怒鳴る。見張が気づく、自分はこの人たちから見れば一般人なんだと。
「誤報なら水なんて出ないわよ!」
見張があたりを見回す、水に濡れて出てくる他の客などを見つける。ほら早く!と促されて見張は一目散に階段を駆け降りる。
「迫真の演技やん」
シンが茶化すが、うるさいわね。とエリは吐き捨てる。避難する人をかき分け進む。水に濡れて驚く人を救助に来た体裁で促して逃していく。
義理堅い国内組織と違って逃げて行ったりするのが、外国系新興組織の合理的な感じがしてタイミングが良い。加えて、先頭を行くエリが本当にたまたまいた職員として良いピースになっている。本格的な装備の我々より説得力がある。うまくいっている。ナツメはそう思っている。
彼女の背中に既視感を感じているが、それが彼女がエマの双子の妹だという証左にすぎない。係長が変なこと言うから意識しちゃうじゃん。
大丈夫、まだスタートラインに立ってないんだから、ここはすんなり行きましょう。
自分に言い聞かせて走る。階段を駆け上がり、3階に到達する。突入すべき部屋から幹部がいないと、ティオが無線で伝えてくる。大丈夫。画像は抑えている。とシンが応じる。しかしシンは今、ブカブカの男物のコンバットスーツが水を吸って、動きが遅く遅れている。まだ1階の階段だ。彼女自身もそれを察して叫ぶ。
「かまへん!いけ!」
最後の扉をぶち破り、部屋に雪崩れ込む。フロアは吹き抜けでビルの3階4階をぶち抜いて部屋が作られている、奥の階段で中2階へ繋がっている。中2階に相沢、優木、と一人、どうやらアレは幹部ではないらしい。下の階にも複数人。流石に避難して作戦はもう通じない。下の階の護衛役が、二人に襲い掛かる。徒手空拳なら負ける要素がない。エリもナツメも一撃の元に叩き伏せる。そして、中2階にいる二人に対して宣告する。
「相沢!誘拐の容疑で現行犯だ。良いな」
ナツメが相沢の名を呼び、宣告する。相沢は意外にもヘラヘラと笑っている。
「優木ハルカ、薬物使用の現行犯だ、お前もそれで良いな」
エリが悟すように言う。エリの言葉に反応してゆっくりと席を立つ優木、髪は前へ垂れ下がり表情は見ない、辛うじて見える口元は動いているが聞こえない。ふらふらとした足取りと姿勢で一歩、二歩と前へ出て、片手をあげる。もう片方の手で髪をかき揚げ、身体を起こす。頭、肩、腹、腰、膝そして足と順に力が込められている。口元が動く、相沢が反応する、彼女の後ろに隠れるように動く。そして優木ハルカが叫ぶ。
「私が相手だ!やれるもんならやってみなさい!」
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へへーあいじゃわしゃんと、よるのおみしぇで、でーとだぁ。とか抜かしてた自分をしばきたいね。ほんと。なーも、これはなんじゃね。
文字通り冷や水をぶっかけられて、少し目が覚めたら、ずいぶん危機的状況だべな。身体を張ることは大好きな方の部類だから、いわゆる千載一遇のチャンスだべね。
目の前には、この前、合同稽古で不覚を取った空蝉さんと、もう一人は知らん。かっこは麻取だけんど、背が高うね。どっちが先に相手すっとね。
「相沢さん、私が時間を稼ぎます」
あぁー、言ってみたかったセリフランキング上位だべね、たまんね。テェ広げて言う感じ決まっとっべね。
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相沢が自分の後ろに隠れる気配を感じる、マフィアの幹部の身代わりも相沢の近くに控える、こいつの行動が読めないが、仕方ない。出来ることをやろうと改めて決心する。
空蝉ともう一人は一瞬黙ってお互いを見るが、空蝉が前へ出てきた。二歩歩き構える。大きなフランクな構え、足幅大きく、手の位置は低い、濡れる床であっても小刻みにジャンプする。
優木ハルカはまず右足を前に軽く出す。床を踏み締め足の感覚を確認する、ずいぶん良くない。仕方ない、勇んで飲んだ薬の効果だ。ここまで自分を道具にした相沢にまた焦がれる想いを抱く。
不思議と力が湧く。左足を大きく前に出し、肩幅より広い足幅をとる、空蝉のスピードに対応するなら低い構えの方がいい。半身を開き前傾姿勢、右手は鳩尾の前、軽く握る。左手は下げて握らない。小柄な相手に対してまず視ることを優先する。
プランは一つだ。必ず左手で空蝉を捉える、彼女が間合いに入れば、下から握らず左手をぶち当てる。仮に相打ちとなっても、体格差がある分こちらが有利だ。そしてその後踏み込んで右手を決める。
当てればなんとかなるし、いかに空蝉が速いと言っても相沢さんよりは速くないし強くない。体格差のある相手には戦法は限られる。だから空蝉はそう動く。だから彼女は濡れた床ですらステップを踏むのだ、彼女の生命線はそのスピードだ、むしろそれしかない。どんな手を使ってきても、今度は目線を逸らさない。
視えるなら、最悪気配を感じれるなら、なんとかなる。空蝉の後は後ろの麻取だ、出来るはず。がんばれ自分。
水を出し切ったスプリンクラーから雫が落ちる、ちょうど我々の間に落ちる、開始の合図か、いや、主導権は自分がとる。落ちる前に、自分の間合いギリギリ外側まで詰める。この重い身体では出来ることはそう多くない、長くは戦えない。おそらく空蝉の間合いだが、彼女に飛び込む隙間を、勢いをつける余白を少しでも削る。右足を寄せてから左足を出す。動作の途中でも対応出来るように身体の重心は動かさない。合同稽古で手玉に取られた景色がフラッシュバックする。
あれが今だったら。怖い。
身体が重い。それは仕方ない。動け。
行け。前へ出ろ。ここから形勢逆転する様を見せてやれ。
やれ。勝つんだ。負けるな。
間合いに入った。空蝉の身体が小さく沈み、飛び込む態勢になる。意識を集中する。右か左か。拳か蹴りか。なんでも来い。ぶちかましてやる。
跳んできた。空蝉の構える右手が少し下がる、振り上げる前の反動。来るのは右の拳だ。向こうも一撃で決める気だ。その軌道なら、自分の左手が刺さる。空蝉の拳の軌道は関係ない。真っ直ぐくれば相打ちで制す、もし力んで外に膨らめば内側に滑り込んで直撃だ。つまり考えられる手で、彼女は最悪を選んだのだ。少し緩む。勝機が転がってきたべ。
ぶら下げた左手を全力で引き上げつつ、逆足となる右足から順に力を入れ、身体の力を、うねりを、左手の先へ伝える。うねりが順番に乗っていく。足、腰、肩、肘、そこまで来た。
空蝉はどうだ、右手を見る。外に開いている。それは彼女にとって最悪も最悪だ。こちらの左が内側に滑り込んで直撃するその景色が見える。
勝った。そんな気がする。
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惚れた女の弱みというならば、それまでかもしれないけど。身が焼けるほどの恋。懐かしい。羨ましくもある。
立ち上がり、二人の男の前に出て自分たちに啖呵を切る優木ハルカを眺めてナツメは思う。エリを見る、彼女もこちらを見ていた。露払いはしてくれると言ったが、これはただの露ではない気がした。私が行く。そう思い。二歩歩き構える。濡れる床でも関わらず小刻みにジャンプする。問題はなさそうだ。
優木ハルカも少し前に出て構える、身体は重そうだ。しかし目に力はある。構えも体格差をあえて埋める、こちらのスピードを警戒する構え。
スプリンクラーに残った水滴が一粒落ちそうだ。あれが合図かな。
雫が落ちる。仕掛けて来た。せっかくだから乗る。合わせて前に出る。
彼女なりの決死の左。残念だ、優秀なんだろうけど、あなたは一歩遅い。
その左では私は捉えられない。
ただ、今は付き合ってはいられないの。でも、あなたの純情は嫌いじゃない。もっと早くどこかで会ってれば、何か変わったかもしれない。なんかごめん。
こっちもまだ色々あってスタートラインにすら立ってないの。だからあなたに構ってる暇はない。
だから踏み越えて先に行く。
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うねりが順番に乗っていく。足、腰、肩、肘、そこまで来た。あとは手首、そして手の甲まで来て、そのタイミングで空蝉の顔面に直撃。
のはずだった。
うねりが、肘を通り抜けた直後。空蝉は優木ハルカの内側にいた。それは当然、優木ハルカの決死の左が外れたことを意味する。
速すぎっべ!
空蝉に当たることで減速を計算していた優木ハルカは止まれない。反転する空蝉、彼女の後頭部が一瞬見えた。そして視界から消えた。身体の感触は左手首を掴まれたことだけ。
次に来たのは全身が浮遊している感覚だった。
あぁ、今度は一本背負いだべか。
床は、硬いんじゃ、勘弁してくれんかねぇ。
受け身も取れず、背中から落ち、肺の空気が自分の意思と関係なく抜ける。息苦しい。
あーあー。かっこ悪いべ。
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ナツメさんが一本背負いを決める。大柄な女性が宙を舞うのは人の目を惹きつけるには充分だが、自分が見惚れるわけにはいかない。
ナツメさんが相沢達に背中を向けることになるから、彼らが何をするかわからない。だから彼女を守るため。エリは走り出す。宙を舞う優木ハルカの横をすり抜け、後ろに控える男二人に突進する。
マフィアの方が気がついたようだ、懐から何かを取り出そうとするが、濡れて滑って手につかない。濡れた床に落ちて力なく転がっていく。なんとなく黒っぽい銃のようなものだった。エリは彼がそれをここまで温存してくれたことに感謝した。
「ありがとう、しかしそれを抜いたら公務執行妨害の現行犯よ」
言い終わるか、それより早く。右拳を振り抜いて相手の脳を揺らす。
崩れ落ちる彼を見て、相沢に向き直る。
あちゃー、コイツ悪運あるんだな。
相沢に手には先程の銃。狙いは幸いにもこちらを向いている。
情けない悲鳴か鳴き声かよくわからない声をあげ、相沢が引き金を絞る。
案の定、ちゃんと、銃声が響いた。
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見慣れた背中。
彼女に向けられる銃。
どこかで見たことがある。
助けなきゃ。
「あれ?」
身体が動かない。
「あれ?」
手足が震える。
「あれ?」
私が助けなきゃ。
「あれ?」
なんで?なんで??なんで???なんで????
今はダメ、気づいちゃダメ。
ダメダメダメダメ。いまはダメ。
お願い、エマ....
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