9:洋服の青山で旅行に着ていく服を買う
悶着はあったが――ビザの発給には、成功した。
何度も、同じ質問を繰り返された。
「観光目的としては不明瞭すぎます」
「精神鑑定が必要なのではないですか?」
職員の目が冷たく光るたび、俺は言葉を尽くした。
ナスターシャ・フィリポヴナを救うためだ。
ドストエフスキーが描いた彼女を、たとえこの世で“架空”とされようとも、
俺にとっては実在する、命なのだ。
――その熱意が通じたのか。
どうにか、ビザは下りた。
同時に、航空券の手配に入る。
直行便? ない。
戦時下で、西側からロシアへの直行便など絶望的だ。
選択肢は限られる。
俺が調べた中で、もっとも安く、かつ現実的なルートは――
**北京経由モスクワ行き。**
そう。中国経由でロシアに入る。
成田から北京へ飛び、そこからモスクワ。
そして、モスクワからは列車でサンクトペテルブルクへ。
公爵がサンクトペテルブルクに降り立ったときよりも、
俺は颯爽と駅に降り立ってやる。
航空券は、即決で購入した。
そして――会社に、有給申請。
だが、うちの会社は古い体質。
有給の“理由”を書かねばならない。
俺は、正直に書いた。
「ナスターシャ・フィリポヴナを救うため」
……数分後、上司に呼び出された。
「山田、お前……これはどういうことだ?」
「そのままの意味です」
「いや、その……ナスターシャ・フィリポヴナって誰だ?」
「ドストエフスキーの『白痴』のヒロインです」
「……え? いや、フィクションのキャラクターだよな?」
「そうです」
「で、それを“救う”ためにロシアに行く、と」
「そうです」
上司は、完全に頭を抱えた。
「山田、お前……大丈夫か? 悩んでるなら産業医とか――」
「結構です。俺には、時間がありません」
「……お、おう」
困惑しつつも、上司は最終的に有給を認めざるを得なかった。
なぜなら――俺はこの三年間、
仕事を完璧にこなしてきた。
成果も評価も、すでに頂点。
会社への貢献度は、もはや伝説級だった。
結果として、変人扱いはされたが、
俺は正式に有給を取得した。
そして――ついにその日が来る。
成田空港へ向かう朝。
駅へと歩きながら、俺は思った。
(ナスターシャを救う男が、バックパッカーのような小汚い格好ではいかぬ)
男が決戦に挑むとき、
それにふさわしい“装い”がある。
俺は、洋服の青山に寄った。
店員に、告げる。
「俺はロシアに行く。ナスターシャ・フィリポヴナを救うために」
店員は、一瞬固まった。
だが、たった0.8秒の沈黙のあと、
見事な営業スマイルで応じた。
「こちらなどいかがでしょう? シワになりにくく、長時間の移動でも快適ですよ」
「いいだろう」
俺は、新品のスーツに袖を通す。
ネイビーのスーツに、白いシャツ。
ネクタイは、濃紺の無地。
内ポケットには、パスポートとメモ帳と万年筆。
そして、京成本線・各駅停車に乗り込んだ。
車内。
どこかの女子高生が、隣でぼやいている。
「成田って遠くない? ムリ〜」
だが、俺の心は静かに燃えていた。
俺は、戦いの地へ向かっている。
ナスターシャ・フィリポヴナがいる――
あの雪の都へ。
物語の歪みを正し、
彼女の運命を書き換えるために。
すべては――この一歩から始まる。