8:とにかく、ロシアに行くしかない
しかし、いかにして――
ナスターシャ・フィリポヴナに会うのか。
俺は道場を後にしたものの、ここで新たな問題に直面した。
……どうやって、ロシアに行く?
いくらロシア語を覚え、柔道を極めても――
日本でじっとしていては、何も始まらない。
ナスターシャ・フィリポヴナは、十九世紀のロシアにいる。
ならば、そこへ行かねばならぬ。
「……とにかく、ロシアに行くしかない」
その決意を固めたのは良かった。
だが、ここでまた壁にぶち当たる。
――戦時下。
現在、ロシアと西側諸国の関係は最悪。
日本もまた、西側陣営の一員として扱われている。
直行便など、存在しない。
だが、だからといって――諦めるわけにはいかない。
まずは、ロシアに入国する手段を確保せねばならぬ。
そのためには――ビザ、だ。
俺は調べた。
どうやら、ロシアに行くには観光ビザを取得しなければならない。
とはいえ、戦争の影響で発給は厳しい。
それでも、俺は引き下がれなかった。
向かったのは、麻布。
ロシア大使館――鉄の門の前。
俺は、そこに立った。
大使館前の歩道には、警視庁のパトカーが停まり、警察官が何人も常駐している。
向かいの麻布台ヒルズの賑わいとはまるで別世界。
ここには、ただ静かな緊張感がある。
(……こんなことで臆している場合ではない)
ナスターシャ・フィリポヴナを救うためだ。
ここで退くわけにはいかない。
警備員が俺に気づき、不審そうに近づいてくる。
「何の用ですか?」
俺は、堂々と答えた。
「ロシアに行くために、ビザを申請したい!」
警備員はしばらく俺を見つめ、
そして、無言で門を開けた。
俺は、大使館の中へと歩を進めた。
――いよいよ。
ナスターシャ・フィリポヴナへの道が開かれようとしていた。
受付で、ビザ申請の書類を提出する。
窓口のロシア人職員は、書類をざっと確認し、顔を上げた。
「観光ビザですね? 目的は?」
「……ロシアに行くためです」
「それは分かっています。ロシアのどこへ? 何をする予定ですか?」
「……サンクトペテルブルクへ」
「具体的な観光予定は?」
「そんなものはない」
職員の手が止まる。
俺を見つめるその目を、俺も真っ直ぐに返す。
「……では、何のためにロシアへ?」
「ナスターシャ・フィリポヴナを救うためだ」
――静寂。
職員は、まばたきをした。
「……ナスターシャ・フィリポヴナ?」
「そうだ」
「……“フィリポヴナ”というのは、父称ですね。誰のことを言っているのですか?」
「ドストエフスキーの『白痴』のヒロイン、ナスターシャ・フィリポヴナだ」
職員の表情が変わる。
「……あなたは、ロシア文学の登場人物を“救う”ために、ロシアへ行くと?」
「そうだ」
職員は、少し沈黙した。
周囲の警備員や、他の窓口の職員たちも、こちらをちらちらと見ている。
職員は、ゆっくりと書類を見直しながら、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……あなたは、ロシアの歴史や文化に関心があるのですか?」
「そんなもの、どうでもいい」
「……では、あなたが目指しているのは?」
俺は、拳を握りしめ、はっきりと答えた。
「ナスターシャ・フィリポヴナを救うこと。ただそれだけだ」
職員は、深いため息をついた。
「……少々、お待ちください」
そう言って、奥の部屋へと消えていった。
俺は、じっと待つ。
ナスターシャ・フィリポヴナを救うためなら、
どれだけでも待つ。
運命の扉は――
今、目の前にある。