7:ソ連邦は社会主義を建設している
そして、三年。
俺は、かつての自分とはまるで別人になっていた。
ロシア語の暗記は、もはや市販のテキストでは満足できず、
古本屋でソ連時代の教材まで買い漁った。
白水社の『標準ロシア語入門』旧版なんかは、比較的簡単に手に入る。
「ソ連邦は社会主義を建設している」
「コルホーズの労働者は偉大な祖国のために働く」
……この例文を、いつ使うのかは正直わからん。
だが、とにかく全部覚えるのだ。
俺の脳内には、ナスターシャ・フィリポヴナを救うために必要な知識が、
ひたすら詰め込まれていく。
もっとも、まだロシア人とは話したことがない。
しかし、それでも構わない。
会話など、いざとなれば何とかなる。
大事なのは、俺の決意だ。
そして、柔道――。
今や俺は、黒帯を締め、師範代とも互角以上の実力になっていた。
道場に通い続けた三年間。
かつて小学生に投げられていた日々は、
もはや遠い過去だ。
俺の技は洗練され、体は鍛え抜かれ、
そして、心は鋼のように強くなった。
そんなある日――
道場の奥から、師範が現れた。
師範は俺をじっと見つめ、静かに言う。
「かかってきなさい」
俺の心臓が跳ね上がる。
これは……試練だ。
師範との、直接対決。
俺は、師範の目を見つめた。
すべてを見透かすような、そのまなざし。
深く息を吸い、正座し、拳を畳につく。
「……本気で、いかせていただきます」
「よかろう」
俺は立ち上がり、畳を踏みしめる。
――死闘。
技をかければ、師範はそれを見切り、投げ返してくる。
それでも俺は、何度も立ち上がり、喰らいつく。
流れる汗、弾ける筋肉、軋む関節。
そして――
俺は、師範を投げた。
畳に沈む師範。
静寂。
全員の視線が、俺に集まる。
師範は、ゆっくりと起き上がり、俺を見た。
そして、一言。
「……ふむ」
「いきなさい」
「……師範?」
「心技体、共に磨かれたお主に、もはや教えることはない」
「師範……!」
涙が、あふれた。
この三年間、俺はこの道場で己を鍛え抜いた。
それを、師範は認めてくれたのだ。
師範は、静かに言う。
「世界は広い。まだまだ強敵はたくさんいる」
「……!」
「果たしてお主が“敵”に打ち勝てるかは、わからぬ。
だが――最後は、心じゃ」
その言葉を、俺は深く胸に刻んだ。
そして、俺は道場を後にする。
目指すは――
ナスターシャ・フィリポヴナのもと。
公爵、ロゴージン。
お前らを倒し、ナスターシャ・フィリポヴナを救う。
すべては――その日のために。