5:柔道に道を尋ねる
気がつけば、半年が過ぎていた。
この間、何度――昼も夜も――
「ナスターシャ・フィリポヴナァアアアアアア!!!!!!!!」
と叫んだか分からない。
朝はロシア語の筆記体練習。
昼は単語暗記。
夜はNHKのラジオ講座と復習。
気がつけば、ロシア語の例文もかなり覚えていた。
日常の挨拶くらいなら、スラスラ言える。
……だが、それと同時に、俺の中で新たな問題が生まれていた。
「これでは足りぬ……」
たしかに、会話はできるようになってきた。
だが――
あのロゴージンは危険すぎる。
ナスターシャ・フィリポヴナを殺した、憎き男。
しかも、あいつは常に徒党を組むような奴だ。
(果たして、ロゴージンが現れた時に、俺は奴を倒せるのだろうか?)
……いや、無理だ。
冷静に考えてみろ。
今の俺は、ただの42歳中年。
ラーメンの食いすぎで腹が出てきた。
筋肉? ない。体力? ない。機動力? 皆無。
このままでは――
俺がボコられて終わる未来しか見えない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
俺は考えた。
(そういえば……駅に向かう途中に、柔道の道場があったな……)
そうだ。
ロゴージンに対抗するには、まず――
**武を鍛えねばならぬ。**
その日、会社帰り。
俺はスーツのまま、道場に向かった。
道場の前に立つ。
中では柔道着姿の男たちが、真剣な表情で稽古をしている。
(ここだ……ここで、俺は強くなる……)
俺は、意を決して扉を開けた。
そして、叫ぶ。
「たのもう!!」
道場内の全員が一瞬動きを止め、こちらを見る。
俺は一歩前に出て、拳を握り――宣言した。
「俺はナスターシャ・フィリポヴナを救うために、強くなりたい!!」
――静寂。
やがて、一番手前にいた若い男がゆっくりと近づいてきた。
柔道着を着こなし、腕組みをしながら俺をじろりと見下ろす。
「……おじさん、冷やかしなら帰ってくれませんか?」
その一言に、俺の拳が震えた。
「冷やかしではない!!」
「いやいや、スーツ姿で道場に飛び込んできて、開口一番『ナスターシャ・フィリポヴナを救う』って……意味わからないんですけど」
若い男は、呆れた顔で続ける。
「ここは真剣に柔道を学ぶ場所です。ふざけ半分なら帰ってください」
くっ……!!
俺は本気だ。
本気でナスターシャ・フィリポヴナを救おうとしている。
なのに――冷やかし扱い……だと?
「俺は本気だ!! ナスターシャ・フィリポヴナを救うために、ここで柔道を学ばねばならぬ!!」
「……だから、それが何なんですかってば……」
その時だった。
「待て」
低く響く声が、道場の奥から聞こえた。
襖がすっと開く。
そこに現れたのは――
白髪混じりの髪を結い上げ、鋭い目をした一人の老人。
その風格。
まさしく、この道場の主。
「師範……!」
若い男が口ごもる。
老人は、ゆっくりと俺に歩み寄る。
「話を聞こう。……貴様はなぜ、この道場に来た?」
俺は、まっすぐその目を見て答えた。
「俺は、力が必要なんです。
ナスターシャ・フィリポヴナを救うために……どうしても……!」
老人の目が、細く鋭くなる。
「……ふむ。詳しいことは分からぬが……貴様には“敵”がいるのだな?」
「そうです!!」
「ならば、ここで学ぶがよい」
「し、師範! しかしこの男は――」
「黙れ」
ピシャリと放たれたその声に、空気が凍る。
老人は、俺の前に立ち止まり、低く語る。
「だがな。そのように殺気立っていては、勝てるものも勝てぬ」
「……!」
「強さとは、ただ力のことではない。
心が整わねば、技も活きぬのだ」
その言葉に、俺の中で――何かが崩れ、何かが生まれた。
(……俺は、本当にナスターシャ・フィリポヴナを救えるのか?)
(……ただ突っ走っていただけじゃなかったか?)
でも――
この老人は、俺の目をまっすぐに見て言ってくれた。
「ここで学ぶがよい」
俺は感動し、涙をこらえきれず、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします!!」
こうして――
俺の、ロゴージンに勝つための。
いや、
ナスターシャ・フィリポヴナを救うための。
柔道修行が、正式に始まった。
場所は古びた道場。
気温はマイナス五度。
床は冷たい――
でも、俺の心は――
人生でいちばん、熱かった。