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4:天下のNHKラジオ講座に教えを乞う

こうして、俺の生活は激変した。


朝は5時に起床。


まだ外が暗い。

静寂の中、机に向かい、筆記体の練習を始める。


最初のころは、キリル文字を書くたびに手がつりそうになった。

でも、書き続けるしかない。


Pはエル、Hはエヌ、Yはウ、Cはエス。

この異次元の文字たちを、脳と手に叩き込む。


そして、例文の暗記。


「Меня зовут Ямада Такаси.」

(俺の名前は山田タカシ)


「Я хочу спасти Настасью Филипповну!」

(俺はナスターシャ・フィリポヴナを救いたい!)


ロシア語の文法は意味不明だが、

理解できなくても、覚えればいい。


暗記こそが、俺の唯一の武器だ。


出勤までの2時間。

書く。唱える。覚える。

すべてを、ロシア語漬けにする。


通勤電車の中では単語帳。

昼休みはスマホでロシア語音声を聞きながら、弁当をかきこむ。


会社では、極力無駄な会話を避ける。


そして、定時――


「あ、山田さん、今日ちょっとお願いしたい仕事が……」


「すみません、予定があるんで」


残業は断固拒否。

俺には、ナスターシャ・フィリポヴナを救うという使命があるのだ。


家に帰ったら、食事も惜しんでひたすら勉強。


文法。単語。リスニング。筆記体練習――


眠くなったら、机に突っ伏しそうになる。


だが、そんなときは叫ぶ。


「ナスターシャァァァ!!!フィリポヴナァァァ!!!」


自分の声で目が覚める。

そしてまた、ペンを握り直す。


俺はやる。

俺は絶対に、ナスターシャ・フィリポヴナを救う。


……しかし。


これではまだ足りぬ。


筆記体と暗記だけでは、ナスターシャ・フィリポヴナを救うことなど、到底できない。


――生きたロシア語を、学ばねばならない。


だが、俺にはロシア人の知り合いがいない。


井出に頼れば、多少は教えてくれるかもしれない。

だが、あいつに教えを請う気はない。


ロシア語が分かることと、俺の気持ちを理解することは別の話だ。


そうなると、次の選択肢は――


NHKである。


さすがは天下のNHK。

今でも「まいにちロシア語」というラジオ番組を放送しているらしい。


無駄に受信料を徴収しているだけはない。


……毎日と言いながら、実際の放送は月曜から金曜までなのが少し気に入らないが、

それでも貴重な番組だ。


2025年4月からの講師は、恩田義徳という先生らしい。


専門は――


古代教会スラヴ語。


ネットで検索すると、論文がずらりと並んでいた。


「古代教会スラヴ語および古代ロシア語における述語的用法の分詞と述語動詞の関係について」


「OCSカノンおよびアルハンゲリスク福音書における接続詞を伴う述語的用法の分詞について」


「古代ロシア語における分詞の誤用の機能的分析―コンスタンティノス一代記を対象として―」


……まったく、なんだかわからんが、とにかくすごい先生に違いあるまい。


ならば、まずは――

師に礼を尽くして、学ぶべきだ。


――まず、ラジオを買う。


今どきスマホでもラジオは聴けるが、それではダメだ。


俺は、形から入る。


受験生がかつて使っていたような、無骨なラジオが必要なのだ。


オシャレなデザイン? そんなものは甘い。


俺が求めているのは、ナショナルのロゴが入った、無骨な黒いラジオ。


ボタンが大きく、ダイヤル式でガリガリ回す、昭和の象徴みたいなやつ。


ヤフオク!で検索する。


――あった。


競り合うつもりはない。

即決価格で落札だ。


数日後、俺の手元に――


ナショナルの重厚なラジオが届いた。


さっそくセットし、放送時間を確認する。


月曜から金曜。


俺は、床に正座してラジオを前に置く。


座布団は使わない。


これから師に教えを乞うというのに、

座布団の上に座るなど無礼千万。


膝が痛くなろうが、背筋を伸ばして学ぶ。


ラジオが、始まる。


「Добрый день!(こんにちは!)」


恩田先生の落ち着いた声が流れる。


いや、正確にはパートナーのクセーニャさんとアリョーシャさんの挨拶が先だった。


たぶん「みなさんこんにちは!」みたいなことを言っているのだろうが、さっぱりわからない。


だが、それでいい。


俺は目を閉じ、深く息を吸う。


この一言一言が、

俺をロシア語の世界へと導いてくれるのだ。


「よろしくお願いします」


ラジオの前で、深々と頭を下げた。


この道の先に――

ナスターシャ・フィリポヴナがいる。


俺は、筆記用具を握りしめる。


「さあ、始めるぞ」


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