14:今日からアレクサンドル
神父は、じっと俺を見つめたまま、しばし沈黙した。
やがて、低く、静かに言った。
「……それは誰のことだ?」
「ナスターシャ・フィリポヴナだ!」
「ドストエフスキーの『白痴』のヒロイン!」
神父の顔が微かに歪む。
「……お前は、小説の登場人物を救うために洗礼を受けたいというのか?」
「そうだ!!」
俺は迷いなく答えた。
「俺は、ナスターシャを救うためには、正教会の信徒にならなければならぬと悟ったのだ!」
神父は深くうなずき、長い白髭を撫でながら思案する。
その時、聖堂の奥に掲げられたカザンの生神女のイコンが、
ほんのわずかに光を放った……気がした。
神父はその光を見て、うっすらと目を細めた。
「……本来ならば、洗礼前には多くの準備と学びが必要です」
そして、静かに俺に向き直り、問う。
「……ニカイア・コンスタンティノポリス信経を知っているか?」
俺は堂々と答えた。
「Верую во единого Бога Отца, Вседержителя…」(我は唯一の全能の父なる神を信ず……)
すべて暗唱できる。いや、魂で覚えている。
神父の眉が上がる。
「至聖三者を理解しているか?」
「Отца, Сына и Святого Духа!」(父と子と聖神!)
その瞬間、神父の目が光る。
その瞬間、神父の目が光る。
周囲の信徒たち――観光客すらも、ざわめき始めた。
「……本当に、君はそこまで……」
俺はさらに一歩踏み出し、声を張り上げる。
「俺はナスターシャを知るために、原初年代記まで読んだのだ!」
神父が息を呑む。
「――原初年代記……!? まさか……」
その名に反応した周囲のロシア人が、祈るような目でこちらを見る。
俺は、ナスターシャ・フィリポヴナを救うためにロシア語を学び、柔道を極めた。
そして、古きロシアの歴史まで辿ったのだ。
質問は続く。
「……教会暦は?」
「ユリウス暦を用いる!」
「エピファニアとは?」
「主の洗礼の日!」
「スラブ奉神礼の起源は?」
「キリルとメフォディイが大モラヴィアで翻訳したことに始まる!」
神父の目が潤んでいる。
やがて、神父はふっと息を吐き、俺の肩に手を置いた。
神父の瞳に、涙が浮かんだ。
「……ああ、生神女よ……こんな者を、あなたは……」
やがて、神父はふっと息を吐き、俺の肩に手を置く。
その手は、熱く、力強かった。
「……ようこそ、兄弟」
「これより、あなたは私たちの家族です」
その瞬間――
聖堂の天蓋から一条の光が差し込む。
まるで、生神女マリアの祝福そのものだった。
そして、周囲にいた人々が、一斉に拍手と歓声をあげる。
「Добро пожаловать!」(ようこそ!)
「Аминь!」(アミン!)
「Боже мой, что за чудо!」(なんという奇蹟だ!)
見知らぬロシア人たちが、次々と俺の背を叩き、握手を求めてくる。
なぜか、居合わせた人々にめっちゃ歓迎されている。
俺は胸を張り、深く頭を下げた。
こうして、俺は正教会の洗礼を受けた。
……しかし、何かが足りない。
俺は神父の前でふと気づき、口を開いた。
「あ……聖名をもらわねばならない」
そうだ。
正教会の洗礼では、かつての聖人に由来する聖名を授かる。
それは、新たに信徒となる者に与えられる、神と正教会との絆の証。
神父はゆっくりと頷き、深く目を閉じた。
「……そうだな。では、お前にふさわしい聖名を選ばねばならぬ」
俺は神父の目を見つめ、まっすぐに言った。
「俺は、ナスターシャ・フィリポヴナを救うためにここにいる!」
「うむ……」
神父は長い髭を撫でながら、じっくりと考え込む。
周囲の信徒たちも、興味津々といった様子で俺を見守っている。
「お前は、ナスターシャを救うために戦うのだな?」
「そうだ!」
「ならば……お前には、強き信仰と、不屈の意志を持つ聖人の名がふさわしい」
神父は俺をじっと見つめ、言った。
「お前の聖名は……アレクサンドル(Александр)だ」
「アレクサンドル……?」
「そうだ。聖アレクサンドル・ネフスキー。戦士であり、信仰の守護者であった偉大なる聖人だ」
俺は拳を握りしめた。
「聖アレクサンドル・ネフスキー……!」
神父は静かに続ける。
「彼は剣を執り、祖国を守り、信仰を貫いた。お前もまた、己の使命のためにここへ来たのだろう?」
「……はい!」
俺は力強く答えた。
「ならば、今からお前はアレクサンドルだ」
周囲の信徒たちが、再び歓声を上げる。
「Добро пожаловать, Александр!」(ようこそ、アレクサンドル!)
「Александр, брат наш!」(アレクサンドル、我らの兄弟よ!)
こうして、俺は正式に正教会の洗礼を受け、「アレクサンドル」の聖名を授かった。
ナスターシャ・フィリポヴナを救うための道は、着実に整っていく。
この作品はフィクションです。
正教会で洗礼を希望しても即日可能ということはあり得ません。
念のため。