10:出国審査で説得される
成田空港・第2ターミナル。
俺は、颯爽と中国東方航空のカウンターへ向かった。
チェックイン。
預け荷物なし。スーツ姿。手荷物は最低限。
目的地はモスクワ。経由地は北京。
パスポートとビザを提示すると、カウンターの職員が目を丸くする。
「このご時世に……ロシアですか?」
だが、顔に出したのはそこまでだった。
搭乗券は、問題なく発行された。
……だが、本当の関門はここからだった。
――出国審査。
パスポートを提示すると、係官が画面をじっと見つめ、眉をひそめる。
「……少々、お待ちください」
係官は無線で何かを確認し、俺の顔をじっと見た。
「お客様、恐れ入りますが、こちらへお越しください」
俺は無言で頷き、案内に従う。
通されたのは、出国審査の奥にある“別室”。
――そこには、別の係官が待っていた。
重たい扉が閉じる。
静寂。
空調の音だけが耳を打つ。
係官は椅子を勧め、ゆっくりと口を開いた。
「念のための確認ですが――
現在、日本政府はロシアへの渡航を自粛するよう勧告しています。
この時期に渡航される方は非常に少なく、慎重な審査が必要です」
「問題ない。承知している」
係官は俺のパスポートを確認しながら、言葉を続ける。
「では、渡航の目的をお聞かせください」
「ナスターシャ・フィリポヴナを救うためだ」
沈黙。
係官は眉を寄せた。
「……もう一度お願いします」
「ナスターシャ・フィリポヴナを、救う」
係官はペンを持ち、メモを取り始める。
「ナスターシャ・フィリポヴナ……というのは、現地に住んでおられる方ですか?」
「いや、これから出会う。彼女はドストエフスキーの『白痴』のヒロインだ」
係官の手が止まる。
「……つまり、フィクションの登場人物、ということで?」
「そうだ」
「……」
係官は、もう一人の係官と視線を交わす。
その場の空気が、明らかに変わった。
「お客様、これは確認ですが――
何か精神的なご病気で通院されていたり、治療中だったりはしませんか?」
「していない」
「会社で、最近ストレスチェックや産業医との面談を――」
「必要ない。俺には時間がない」
係官たちは、もはや“何か言ってはいけないものを扱う”目をしていた。
それでも俺は、目を逸らさない。
「……再度確認させてください。
お客様は、ロシアに入国して何をされるおつもりですか?」
俺は、拳を握りしめ、はっきりと答えた。
「ナスターシャ・フィリポヴナを、救う。
ただそれだけだ」
係官は数秒、黙ったまま俺を見つめていた。
やがて、立ち上がり、無言で上司らしき人物のもとへ行き、
低い声で何かを話していた。
数分後――
再び戻ってきた係官は、深いため息をついた。
「……分かりました。渡航は“自己責任”でお願いします」
「感謝する」
俺は立ち上がり、深く一礼した。
搭乗時刻が近づいていた。
出国ゲートを抜け、空港の天井が広がる。
広大な滑走路の先に、俺の旅が始まる。
静かに、胸の内で祈る。
ナスターシャ・フィリポヴナ。
今、俺は、そちらへ向かう。
――運命の扉は、確かに、開かれた。
この先、現代ロシアの描写がありますが、作者はロシアにいったことがありません。
この作品はあくまでフィクションです。