1: ナスターシャ・フィリポヴナを救わねばならぬ
「ナスターシャ・フィリポヴナを救わねばならぬ」
俺は山田タカシ。42歳、独身。
大学卒業後に入社したのは海山商事という、それなりに歴史のある中小企業。主に文房具を扱っていて、俺も営業として手帳やボールペンを売り歩いている。
給料は手取り24万円。
氷河期世代にはありがちだが、まあ安い。
これでも年功序列で少しずつ上がってきたほうだ。
さて、
そんな俺がなぜこんな大げさなことを言い出したのか。
正月が近づくと、
世間は「帰省だ」「家族だ」と浮かれ始める。
しかし俺は、実家に帰るのが億劫だった。
あれこれ聞かれるのも面倒だし、
帰っても特にやることがない。
そんなわけで、寝正月の暇つぶしになる本でも買おうと
神保町の三省堂本店に立ち寄ったのが12月30日。
なんとなく手に取ったのが、
ドストエフスキーの『白痴』だった。
「これなら正月の暇つぶしにはなるか」
そんな軽い気持ちでレジに持っていったのが
運の尽きだった。
読み始めたら、止まらない。
読み進めるほどに、俺の胸の奥で何かが沸騰していく。
そして気づいた時には、怒りが爆発していた。
ムイシュキン公爵、お前はなんなんだ!!
ナスターシャ・フィリポヴナは、あれほど苦しんでいたのに、
お前はただ「美しい魂」のままでいるだけでいいのか!?
お前が優柔不断だから、ナスターシャ・フィリポヴナは
絶望し、ロゴージンに殺されることになるんだろうが!!
何が「白痴」だ。何が「善」だ。お前はただの無力な観察者じゃないか!!
机を叩いた。
息が荒い。
気づけば、頭の中でひとつの決意が生まれていた。
――ナスターシャ・フィリポヴナを救わねばならぬ。
1月4日。
年が明けても、俺の怒りは収まらなかった。
いや、むしろ日を追うごとに膨れ上がっていく。何か行動しなければ気が狂いそうだった。
そこで俺は、久々に地元の友人・井出を呼び出した。
こいつとは高校の頃からの腐れ縁だが、俺とは違って頭が良い。
早稲田大学のロシア文学科を卒業し、今は予備校で講師をしている。
場所は新宿の激安居酒屋「一休」を指定した。
俺の財政状況を考えると、ここしかない。
席に着くなり、俺は一気にまくしたてた。
「おい井出、お前はロシア文学をやってたんだろ? だったら聞けよ。俺は今、猛烈にムイシュキン公爵に怒っているんだ!」
井出は腕を組み、面倒くさそうな顔をしながら、鼻を鳴らした。
「はぁ? なんだよそれ」
「『白痴』だよ、『白痴』!! ナスターシャ・フィリポヴナがどんなに苦しんでいたか、お前も知ってるだろう1? それなのに公爵は何もしなかった! ただ“美しい魂”とか何とか言って、結局、彼女を救えなかったんだ!」
「……なるほど。お前、正月休みで暇すぎて発狂したか?」
「ちげえよ! 俺は文学に怒っているんじゃない。ムイシュキン公爵個人に怒ってるんだ! こいつがもうちょっとマシな男だったら、ナスターシャ・フィリポヴナは救われていたんだ!」
すると井出は、評論家然とした態度で腕を組み、静かに語り始めた。
「ドストエフスキーはな、もし現代にキリストが現れたらどうなるかってテーマでこの作品を書いたんだよ。ムイシュキン公爵は、いわばそのキリスト像で――」
「うるせえ! 俺は文学評論を聞きに来たんじゃねえ!!」
井出は少しムッとした顔をしたが、続ける。
「まあ、落ち着けよ。俺もさ、子供ができてから思ったんだけど――」
「知らん!!」
「だいたい俺の専門はドストエフスキーよりゴンチャロフとか――」
「誰だそれ!」
「トゥルゲーネフとか――」
「もういい!!」
俺は椅子を蹴り飛ばし、勢いよく立ち上がった。
「もういい! お前なんかに相談した俺が間違っていた!!」
井出は呆れた顔をしながら、何か言いかけたが、俺は聞く耳を持たなかった。
「俺はナスターシャ・フィリポヴナを救う! お前なんかと絶交だ!!」
そう叫んで、俺は店を飛び出した。
……が、しばらく歩いたところで、ふと気づく。
(あ、勘定払ってねえ……)
少し罪悪感はあったが、今はそれどころじゃない。
俺の心はすでに決まっていた。
――ナスターシャ・フィリポヴナを救うために、俺は何かをしなければならない。
そう、何かを――。