人を好きになるのに理由っているかな?
「人を好きになるのに、理由っていると思う?」
放課後の教室。
夕暮れ一歩手前の、名もなき時間。
二人を除いたクラスメイト達は既に帰路に就くか、あるいは部活動に向かうかしていて、西側に設置された窓から差し込んだ陽射しは、彼ら以外の影を落とさなかった。
そんな中、その影の片方が口を開いた。
投げかけられたのは、そんな質問だった。
「いるんじゃ……ない?まぁ、俺にはちょっと分かんないけど」
戸惑いを露わにしながらも、もう片方の影がそう答えた。
顔を近付けられ、思わず目を逸らしながら。
その質問を投げかけた方の影である彼女は、こういった問答をよく好む質の人間であった。
それを知っていたからこそ、答えには毎度悩まされながらも、もう片方の影である彼は、それを考えながら、大いに悩みながら、答えるのだった。
彼とてその答えに自信を持てていたわけではなかったし、自分が出す答えなどよりも、彼女が初めから持っている答えの方がよほど正しいように思えていたのだが、それはそれで気付きがあったので、この時間を楽しんでもいた。
「誰かを好きになったことって、無いの?」
彼女は尋ねた。彼がそれを肯定するように頷くと、彼女は少し満足そうな表情を浮かべながらも、話を元に戻す。
「私は、いらないとおもんだよね」
「世間はみんなそう言うよな。『誰かを好きになるのに理由なんてない』って」
彼は窓の外に向けていた目を彼女の方へと戻しながら呟いた。
ここで彼の言う世間というのは、彼が彼の中で勝手に形成した世間のことであり、実際のそれとは少しずれていたりもする。
「実際に言ってる人は見たことないけど、確かに聞くよね」
「でもさ、理由もないのに好きだって言っても、説得力に欠けない?」
「うぅん……私は、それは少し違うと思ってるんだよね」
「違うって?」
「理由がないんじゃなくて、何かを好きな人は、理由を考えたり、それを誰かに説明したりすることができない──って、そう思う」
「理由を考えられない……か」
「うん。好きな人……は、いないんだっけ。じゃあ、何か今熱中してるものとかってある?ゲームとかでもいいんだけど」
「熱中?……んー、どうだろ。あんまりパッと出てこないな。なんかどれも惰性でやってる感じあるし」
彼はその質問に対して考えを巡らせるも、結局その場で答えられるようなものは、端から持ち合わせていなかった。
ゲームもアニメも漫画も、好きかどうかと言われれば好きではあるものの、熱中とまで言われると、それほどでもないというのが現実だった。
それならそれでいいと、彼女は話を変える。
「ならさ、好きの反対って何だと思う?」
「好きの反対……?嫌いとか?」
「違うかな。まぁ、違うっていう程でもないのかもしれないけど、好きの反対も嫌いの反対も、同じように無関心なんだと思うんだよ」
「無関心」
彼は相槌の代わりに、彼女の言葉を繰り返した。
「そう、無関心。人間は始めからすべてのモノに対して興味関心を持ってるわけじゃない──じゃない?」
「まぁ、確かに」
「だから初期状態として、私達は全てに無関心──だけど、目に入ったモノでも何でもいいんだけど、何かしらに対して興味が生まれると、その人はそれに対して関心を持つようになる」
「……関心か。まぁ、持つかも」
「で、その関心に火が点くと、人はそれに熱を入れるようになる」
「熱か……あぁ、それで熱中ってこと?」
彼はそこで言葉が繋がり、納得したような表情を見せた。
熱に中てられるから熱中──と、そんな具合に。
「そう。だから結局のところ、何かを好きになるというのも、何かを嫌いになるというのも、究極的には何も違わない、同じ行為であると言えるわけだよ」
「好きと嫌いが同じ……まぁ、言わんとするところは分かるけど、なんか違くない?」
実際はその間に無関心を挟み込んでいるのだが、無関心の反対が好きであり、同時に無関心のもう反対側が嫌いであるのならば、好きと嫌いは同じく無関心の反対であるという意味で、同じものだと言えた。
しかし、好きと嫌いではそこに抱かれるものがあまりにも違っていたこともまた事実で、彼はそこに疑問を呈する。
「そう?イメージとしてはアレだよ、道路」
と、そんな彼に対し、彼女はいつものように例えを出す。
話をする上で、例え話を理解できるだけの知能や知識があるのなら、理解させるのにはこれが一番手っ取り早いと、筆箱から定規を二本取り出し、水平に並べた。
「道路?」
彼はそれに対し、復唱するように聞き返した。
彼女はそれにうんうんと首を振りながらも、その定規の上に、それぞれ一つずつ消しゴムを配置した。
「道路。アレって右車線と左車線で別れてて、向かう先はそれぞれ正反対じゃない?でも車を走らせるって部分では、つまりやってることは同じなんだよ」
「車を……うぅん……」
片方の消しゴムは右端から左へ、もう片方は左端から右へ、すれ違いながら移動する。
その光景を見ながら、彼は机に肘をつき、唸った。
「車はあくまでもイメージだよ?言いたいのは、どちらも向いている方向が違うだけで、やっていることは何も変わらない。何かに熱中しているという意味では、そこに本質的な違いはないってこと」
「やっていることが同じ……ん、まぁ、理解できないではないか──でもその話だと、最初の、好きな理由を考えられないっていう話と繋がらなくない?」
「いや、ここからだよ」
「あぁ、前提の話をしてたのか」
「そう。さっき言った、理由が考えられない、説明できないっていうことの理由は、この熱中している状態にあるわけだよ」
「熱中してるから理由が説明できない……」
「『人を好きになるのに理由なんかない』って世間では言うって言ったけど、まぁだから、それは同時に、何かを嫌いになるのにも理由はいらないって話でもあるんだよね」
「それ凄い嫌だな。嫌われるならせめて理由が欲しい。改善できないから」
「まぁね。だけどそれは言ったように違ってて、何かに熱中している人間はその理由を考えたり説明したりすることができないって話──って言っても、これもまぁ、自分で言っておいてなんだけどちょっと違ってて。説明できないっていうか、説明できる時点で好きじゃないよね?って話なんだよ」
「説明できる時点で好きじゃない……?」
彼は首を傾げ、復唱しながら問い返す。
「うん。だって、好きっていう状態はさ、熱中してるんだよ?熱があるんだよ?それって、冷静に物事の理由を考えてそれを理屈として他人に説明する行為とは対極じゃないかな?」
すると、彼女は顔を段階的に近付けながら答えた。勢いあまったせいか、額がぶつかりそうになって、彼女は恥ずかしそうに、少し下がった。
「熱中と冷静──確かに、対極とまで言われるとちょっと大袈裟な気もするけど、まぁ、文字の感じは逆か」
「そう。分かってくれた?」
「んんん……」
と、彼は唸る。理解できないでもなかったが、完全に納得するには至らなかったらしい。
それから文字通り頭を回して色々思案した結果、反論──とまでは言わないにせよ、一つ思うところがあり、尋ねた。
「でもさ、説明できる人もいるじゃん?自分はこれが好きだって言って、色々グッズ買い込んだりして、話を聞いたらべらべら語り出すタイプの人。アレはどうなの?好きじゃないの?」
「確かにいるね。けどそれは多分、本質的な好きとは全く異なる行為だと思う」
「異なる?好きは好きなんじゃないの?」
「どっちかって言うと、自己暗示に近いんじゃないかな?」
「自己暗示……随分とまた変なことを……」
「変じゃないよ。『自分はこういう理由でこれが好きだ』って言うのはつまり、『自分はこういう理由でこれが好きに決まってる、そうに違いない、そうであるべきだ』って言ってるのと同じことだと思うんだよ」
「自分に対して好きであるように言い聞かせてるってこと?」
「好きであるように言い聞かせてるっていうか、それが好きな自分が好きなんだよ。自己愛でしかないってこと」
「それが好きな自分が好き……まぁ、現代人には多そうだけど、皆が皆そうって言うのは、流石に偏見過ぎじゃない?」
「そうかな。まぁ、そうでなければ多分、それが好きであるということを一種のステータスとして、アイデンティティとして、自分を自分たらしめる存在証明としてる──って感じじゃない?」
「自分の存在を何かに頼る……か。分からないではないか。他に何もないから、せめてそれが好きな自分として振舞う……っていうのは」
自分自身当てはまらないでもなく、彼はそれに小さく頷いた。
ブランド物をありがたがるのと、所属する団体や企業なんかを矢鱈前面に押し出してくるのと、感覚的には同じなのだろう。
それ以外に無いのだ、自分という存在が。
「それでさ、今はSNSなんかも発達した世の中ではあるわけだから、自分と意見を同じくする人達同士でコミュニティを作ったりもして、その中でその認識を深めていくようなことをしたりもするんだよ。『自分達はこれが好きだ』って、何一つ違和感を持たずに、連鎖する好きの大合唱で、自分の周りを埋め立てていくって感じに」
「でもそれはなんか、宗教じみてない?」
「だってそうだもん。当時の宗教も、今の推し活とかいうのもほとんど変わんないよ。アクスタ並べて拝んでる子と、十字架片手に祈りを捧げてる人──アレ、どこが違うように見える?」
「まぁ、入れあげてるって意味では……そうか」
「そ。宗教にしろ推し活にしろ、皆仲間が欲しいんだよ。同じことについて話す仲間とか、それをきっかけに仲良くなれる相手とか、果てはパートナーとかね。いじめとかもそうだよ?アレだって、誰かを嫌うことで、同じようにその人を嫌う仲間を集めてるんだし。仲間が欲しいっていう感覚は、善人にも悪人にも、同じように備わってるんだよ」
「いじめ……流石にそれとこれを同列に並べるのは……どうなの」
「だからさっき言ったでしょ。好きも嫌いも、やってることは同じだって──でも、嫌われるなら理由が欲しいってさっき言ってたじゃない?」
「言ったね」
彼が認めると、「彼女はそれについては安心してほしい」と、どこか、何故か、自慢げな顔で言う。
それに対して無表情に首を傾げたのを見て、彼女は少し黙り、咳払いをしてから続けた。
「確かに理由はないんだけど、でも、きっかけくらいならあるとは思うんだよね」
「きっかけ?きっかけって理由とは違うの?」
「きっかけはあくまでもきっかけでしかないでしょ。どんなに小さなきっかけも、どんなに大きなきっかけも、それは理由にはならない。クラウチングスタートみたいなもんだよ」
またもや例え話だった。彼女は机の端に人差し指と中指を突くと、それを人に見立てる。
「はぁ」
「クラウチングスタートで初速を出すことは出来るかもしれないけど、アレの勢いだけで走り続けられる人なんていないじゃない?アレと同じ。どんなきっかけがあろうと、それだけで好きでい続けることはできないし、同じように、嫌いでい続けることもできない」
と、両指を人の脚として交互に動かしていき、端から端までをトテチテトテチテと完走させた。
それを見届けると、彼は顔を上げた。
「でも怨み骨髄で嫌ったり憎んだりし続ける人もいるじゃん?アレもきっかけはきっかけでしかないの?」
「うん。そういう人の場合は多分、常にそのきっかけが供給され続けてるって感じじゃないのかな」
「クラウチングスタートをしなおしてるってこと?」
「いや、それとはちょっと違うけど……アレだよ、レースゲームとかでさ、地面に加速できる板が張り付けられてたりするじゃない?」
「あぁ、あるね。なるほど」
「まぁ、そうでなくてもさ、何かに、誰かに熱中してると、その全ての言動が新しいきっかけになっちゃうんだと思うんだよね」
「全ての言動が……あぁ、嫌いな奴が上手くいってたらそれで余計嫌いになる、みたいな?」
「そうそう。好きも同じ。好きな人が話しかけてくれたら余計好きになるって感じに」
「そんなに単純なものなのか……」
「単純っていうか、人は熱しやすく冷めやすいんだよ。だから常に熱を入れていけないと、その好きが冷めていっちゃうってわけ。だから、好きな理由を説明できるのはこの──冷めた後とか、冷めてきたちょうどその時なんだよ。既に一歩引いちゃってるからこそ、それが好きな──というよりは、それが好きだった理由を、改めて説明できるってこと」
「なるほどねぇ」
「うん。分かってくれた?」
「うん、まぁ、なんだ。理屈としては、分かるんだよ。人を好きになったりするのに理由なんかいらないっていうのは、それなりに理解もできた」
「そっか。ならよかった」
「けど──」
そもそも、何故二人はこのような会話を、放課後の誰もいない教室で交わしていたのか。
これくらいの会話であれば昼休みにもできただろう。そうでなければ、帰り道にでもできただろう。こう言っては何だが、メールでよかったかもしれないハズで、何が言いたいのかと言えば、わざわざ放課後に居残ってまでする必要性のある会話では、本来なかったということである。
ということは、彼らの間には今日この日、この時間、この場所で、この会話をするだけの理由があったのではということになるのだろうが、それは。
「けど、何?」
「いやまぁ、理屈としてはそうなるのかもしれないんだけどさ、やっぱり告白されたら好きな理由とかは気になるよ、俺。俺じゃなくても気になるのかもしれないけど」
と、少し悲しそうな表情を浮かべながら言った。
そう、彼はこの日、人生で大凡初めてとなる告白を受けていたのだった。
彼と彼女は、入学して間もないころに決まった委員会が同じであったことからその関係がスタートした。
初めこそ碌に会話を交わすような仲でもなかったのだが、ふとしたきっかけで意気投合し、こうしてあれこれ雑談できるようになってからはそれなりの期間が経過していた。
それもあってか、彼はその告白に関しては吝かでもなかったのだが、気になって尋ねたのだ。
どうして──と。
純粋な疑問だった。確かに仲良くなれたと自分でも感じていたものの、それだけだったのだ。好かれるようなことをした覚えが無かったのだった。
たまたま同じだった電車内で痴漢を撃退したとか、街中で絡んでいたナンパから助け出してみせたとかでもなければ、彼女の悩みを鮮やかに解決してみせたというわけでもない。
ふとしたきっかけと言ってはみても、委員会の仕事で一緒になった際、無言の空間が嫌だったから話しかけてみただけで、後はただ仕事が重なる度にこんな問答を繰り返していただけに過ぎないのだ。
好かれるような理由が、心当たりが、彼には全くと言っていいほどなかったのである。
しかし、それに対する彼女の答えはと言えば。
そんなものはない──であった。
それは恐らく、彼女からすれば失言でも何でもなかったのだろうが、彼から言葉を失わせるのに十分すぎるほどの言葉ではあった。
彼はその答えに対し、再度尋ねた。
どうして──と。
それが、この会話のきっかけとなった出来事である。
「そんなこと言われても……理由とかないし」
「……じゃあアレは?」
「アレ?」
「そう、さっき言ってたきっかけだよ。好きでいる理由は無くても、好きになったきっかけくらいはあるんでしょ?流石にそれもないとなると、どうすればいいのか分かんなくなるんだけど」
「きっかけ……ね。挙げるなら、そういうところじゃないかな」
「そういうところ?」
「そういうところというか、こういうところ。こんな哲学……でもないけど、考えても答えなんて出ないどころか、答えが出たところで『だから何なんだ』としかならないような私の話にも付き合ってくれるところが──ってこと」
「雑談に付き合ってたからってこと?」
「あくまでもきっかけでしかないけどね?それが理由ってわけじゃないから」
覚えておいてよ、と彼女は指差しながら言う。
粛々と言う。
しかし、その表情には段々と緊張の色が露わになってきた。
彼女は未だ、告白の答えは受けとっていないのである。
それはここまで繰り広げていた会話が原因であるのだが、その会話がひと段落した今、彼女は満を持してその答えを受け取ることになる──はずだったが、彼はそこで答えるに迷った。
理屈としては理解したのだ。彼女が自分を好きである理由を説明できないということの理屈は、説明された通りなのだろう──しかし、流石に納得しかねた。
好きですと言われて、ここはいい。
付き合ってほしいと言われて、ここまではいい。
だが、ちなみにどこが好きかと問うて、理由などないと言われては、そう簡単には引き下がれなかった。
「そ、それで?」
しかし、なかなか答えを出さないことにしびれを切らしたのだろう、彼女はとうとう催促に出た。
段々と、表情だけでなく体全体から自信が失われていく彼女は、さながら枯れていく花を倍速再生したかのような萎れ具合であった。
「……あんまり重要なことじゃないのかね、理由なんて」
そんな様子を見て、彼は言う。
「……?」
「気になって訊いたら驚かされたけど、まぁ、結局答えが変わらないのなら、理由なんてあろうがなかろうが同じなのかなって」
「……!」
事実、ふと気になって訊いてみただけで、答え自体はその場で出せてもいたのだ。その質問の答えがあまりにもなモノであったがために思考が停止してしまったというだけに過ぎず、やはり前述の通り、吝かではなかった。
彼女はそれで答えを察したのだろう、萎れた花はみるみるうちに水を吸い込んでいくと、夕暮れ時の教室に満開の花咲かせた。
彼女が察したであろうことも彼は察したが、それでも答える。
告白に答える。
これまで積み重ねてきた無駄話も、こういう結果をもたらすのであれば、してみるものである──と、彼は後に思ったのだった。