2025年8月31日 +どく
晦日である。本来の意味で使っているわけではないのだと、いまさらながらに気付いたのだが。
どういう意味か? 朔であるということ。つまり、新月である。和暦は太陰暦であるから、月末が新月になるわけだ。ということは、私が先月まで使っていた「月末」という意味での、”晦日”は少々意味が異なる。まあ、旧暦に合わせればの話ではあるが。
どうにも落ち着かないのは、うつうつさんが在室中だからというわけでは、なさそうだ。
何事にも中途半端な私は、たぶん自分の中に引き起こしていることも、中途半端なんだろう。愛情がわからないと思いながらも愛を知っているし、無性に親に甘えたくなるのにバカバカしいとあざけってしまうし、独りを求めていながら隣に誰かのぬくもりを求めてる。
どこまでが正常な人間の、正常な行動なのだか、判断がつかない。
家族と価値観も、ものさしも、基準値も、速度も違いすぎるとわかっていながら、それを埋めるための行為をひどく面倒だと思う。
他人に頼れるほど、自分を愛せているのであれば、もうどうということもないのだろう。
他人にすがれるほど、自分を好いているのであれば、過去の出来事だったろう。
他人に助けを求めることが出来るほど、自分を見捨てているのであれば、もうここにはいなかっただろう。
どれも中途半端な感情が、ぐるぐると漂っているものだから、何も変わらない。
ここにもきっとずっと同じことを書き続けるんだろう。
そうなる前に、すべてを消し去って、すべてをなかったことにして、”私”をあきらめるだろう。
そんな日が遠くないことを祈ろう。
こんな文章につきあってくださっている方々が、同じ苦しみに落ちる前に、私は逃げ出そう。
わからないけれども、誰がどんなふうに読んでいるか、なんて。
でもどこかで、知ってしまったなら、私は逃げ出そう。
ここから、この社会から、この世界から、この自分から。