2025年8月16日 +亡くなった祖母の戦争の話
注意:今回はいつもよりも長文になっております。短い内容のが読みたい方は、戻っていただくか、飛ばしてください。いつもながら、飛ばして読まれても問題はありませんので。
また、戦争の話は苦手という方は、途中から回れ右しても大丈夫です。戦争の話が始まるところは、明確にしてあります。
数年前に亡くなった祖母(享年95歳)と、私が大学生の頃から不定期に文通をしていた。
電子機器に弱い人という訳ではなかったと思う。
もう文通を始めたきっかけを忘れてしまった。私も祖母も、手紙とはがきとをその時の必要に応じて、使い分けていた。
私が送った手紙やはがきがどうなっているのかは知らない。書いた内容もまったく覚えていない。
ただ、祖母が送ってくれた分は、私の手元に残っている。
残っているのだが、このまま残しておいても、どうしようもないので、去年くらいから処分しようと思って、書き写しをしようとしていた。
はがきの分は書き写しを終えて、祖母の自筆であったほうが良いであろう分だけ、残した。
では、手紙のほうである。
取り組もうと思ったのだが、これが長い。
一回分の内容が、便箋で3枚に渡るものもある。というより、基本2枚分しっかり書かれているのだから、つづけ字で書かれている文章を読むのが、しんどい。
こうなったら、一度すべてを読み返して、いるものいらないものを分けてから考えようと、読み返し始めた。
そして、一通、滅多に過去の話なんかしなかった祖母が、戦争の話を書いているものを見つけた。
その一通が届いた当時の私が何を考えていたのか、記憶にない。
この一通は残すつもりではあるが、お盆の時期に読んだのも何かの縁だろうと、ここに書くことにした。
この場で戦争についての賛否を、論じる気はない。
ここでは、戦後80年と言う節目で、祖母の戦時中の話を見つけ、私一人が知っておくだけでは、もったいない、と思ったから書くだけだ。
では、前置きが長くなった。書き写していこう。『』の中は、原文のままである。ただし、つづけ字で書かれているため、本人が書きたかった文字ではない読み方をしている可能性があることを、ご了承いただきたい。なるべく、忠実に書き写すつもりだが。
(前略)
『今日はね おばあちゃんの二十才の時のことを書いてみます
太田富士重工の前身である中島飛行機製作所が四キロ以内の地点にあったので 二月十日にB29の波状攻撃を二時間受けたのをきっかけに殆ど毎日空襲警報の発令される中での軍事工場での勤労奉仕でした
現在の中学三年(国民学校高等科二年)の女生徒四〇人余りを引率して足利市駅南の「リョウ屋」という機屋さんの工場で酸素(?)熔接の引率だったんです
空襲警報発令中は電車は動きませんでしたので 何度か家まで歩いて帰ったもんです 米軍の艦載機の場合は低空飛行で機銃掃射を受ける危険があるので見つからない様に麦畑や堀の中へ身をかくし乍ら帰ってきました 歩きはじめは歌を唱ったりはげまし合ったりしながらなのに時間が経つにつれてだんだん黙りっこくなってきて一列に歩いてゐる列の所々からしくしく泣き出す生徒も出てきました 無事学校のそばまで帰れ解散し家路へ向う生徒の背中を身乍ら明日元気で出て来られるかなと不安がよぎったものです
食べる物も少く腹一杯食べられることは殆んどと言っていい位なかったんです
ご飯やうどん等も現在見られる様な形の物を口にすることはなかったです 調味料等も足る程はありませんでしたので うまいまずい等は言っていられず 命をつなげる物腹を満たす物はなんでも工夫して食べていました
着る物は勿論配給で割り当てられたもの以外は殆どなく家の中に眠っている古着を夜なべに作りなおして着る以外に方法はなかったんです 勿論ミシン等はなく全部一針一針手縫いで仕上げていたんです
それでも作らなければ明日着る物がないので寝ずにでも作って着たんですよ 近所の子供の洋服やカバンの様な物まで作ってあげたもんでした
四才下の妹が前橋の日赤病院に勤務していましたので日曜日になると焼きおにぎりやいり豆をもって自転車で面会に行きました
朝六時に出発して日赤病院につくのは九時半をすぎる位でしたね 四月から六月にかけて毎週でしたね 病院だって食糧が足りず腹をすかしていたんだって・・・
七月に入ってからは空襲が激しくなって出かけることが出来なくなってしまいました
終戦になって九月から二学期がはじまっても学習する本はありませんでした 帳面もやっと手に入る程だったので 黒板に書かれたものを書き写して勉強する方法しか考えられませんでした
それでも落ち付いて教室で勉強出来るのは十一か月振りだったので たのしい毎日だったと思います
社会は軍事工場が全部閉鎖され占領されてしまったため夫(?)者ばっかり 機業をはじめるにも資金がなく物価は上るばっかりで物々交換でなければ手に入る物はない時代でした
二十一年に入って進駐軍の命により国民全体の貯金も現金も封鎖され一家当り三百円しか現金をもつことが出来なかったんです
農地改革が施行されそれまでは自由に売買出来た農地も耕作している町村と在住地の土地のみ三町歩(現在の三ヘクタール)までしか保持出来なくなってしまったんです
それでも自分の力の限り一生けんめい生きて見ると決して不幸せだったとばかりは思いません いろいろ経験して得たものは目には見えませんが大きなたからです』
(後略)
以上。
句読点がなくて読みにくいかもしれないがご容赦を。読めない文字は(?)を一文字分で書いている。私にもう少しでも語彙があったなら、読み解けたのかもしれない。
私に宛てての個人的な話が前後にあったので、そちらは略してある。戦時中の話ではない。
では、今日はこの辺で。お疲れさまでした。