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ゆめうつつをつづる  作者: 稲波 緑風
2024年9月
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2024年9月9日

 酔っぱらいの文章を2日続けたので、さすがに今日は自重したい。

 なので、めずらしく午前中のうちに、書いている。(いつもは夜21時~22時にかけて)

 とはいえ、何か書くことがあるわけではない。

 ただただ、酔って動かない頭で書く文章よりも、とりあえずはましだろうと思って書いている。(本当にましなものかどうかの判断は、読んでいる方々がこっそりしてほしい)

 でだ、今日は重陽の節句。菊の節句とも言われる日だが、そういえば今年は菊を見ていないな。と思っている。店で売っている菊ではない。自生しているか、庭先やプランターなどで育てられている菊のほうだ。

 店で売っている菊というものは、生産者が一年を通して花が切れないようにと、ハウスなどで温度調整や水量管理など、手間をこめて作られているのだから、季節感というものにどうしてもかけてしまうのはいなめない。その分、かけられた労力に見合った綺麗さが花にあるのだから、生産者はなくてはならない存在だ。

 しかし、私が今思っているのは、自生しているか、庭先やプランター等で育てられている、季節にあったほうの菊のことだ。

 見かけない。つまり、育てていない。などという、乱暴な方程式は成り立たない。なぜなら、私が花を気にする気分があったのか、という疑問点があるからだ。

 となると、農家が集まっている集落だ。庭がないわけではない。育てようと思っていなくとも、種をまいてある程度放っておいても、育つ土壌があるわけだ。

 ならばなおさら、私が菊があるかどうかを気にしなかったから、というのが、菊を見ていない理由になりそうなのだが・・・・・・。

 ここで問題です。高齢化が進み、草だらけの田畑が増え、庭の手入れもおざなりになりがちな家が、菊の種をまくなどという、丁寧なことをするでしょうか?

 何とも言えない寂しさだが、たぶん私が菊を見ない理由は2つだ。そもそも菊がないということ、私が菊が咲いているかどうかを気にしていないこと。

 重陽の節句がどうのこうのというどころではない。まずは身近な場所で季節を探すべきだなと、つくづく感じている。

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