表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゆめうつつをつづる  作者: 稲波 緑風
2024年3月
156/767

2024年3月24日

 身体の痛みは和らいできた。本当に風邪だったのだろうか? 筋肉痛とか、(まかり間違ってもありえないが)成長痛とか(笑)だったのではないかと疑いたくなる痛みだったのだが・・・・・・。

 まだ咳も鼻づまりも治っていないので、養生します。


 本日、墓参りに行ってきた。何分、徒歩10分程度で到着できる場所なので、散歩ついでに気楽に行けてしまう。お彼岸のような特別な時でなくてもふらっと立ち寄れてしまう。

 まあ、一人でふらっといくことはあっても、お彼岸やお盆などの特別な時でなければ、家族と一緒に行くことはない。

 で、甥っ子たちといったのだが、甥っ子が走ること、走ること。一人で先に行ってしまうのは危ないので、追いかけねばならない。『こちらは運動もしていない、ぐうたらな人間なんだぞ?』と思いながらも、追いかけられる人間は偶然にも私しかいなかったが為に、走らざるおえなかった。

 走らなければならなかった、とはいえ、追いかける相手は幼児である。大人が走って追いつけない速さで走れはしない。また、持久力がついている子だとしても、彼らには感情があるので、走る気分だったり、走りたくない気分だったりする。つまり、ぐうたらな日常を送っている人間でも、本気を出さずに走っても追いつくし、距離が開いていても走ることで息があがったりはしない。

 本題である。小学生の時分、持久走大会というものが存在した。私は子どものころからひねくれて、馬鹿な人間であったが為に、5・6年生の頃、上位入賞なるものに入れるように頑張ったことがある。

 それ以降、走る訓練などはしたことはないが、中学・高校のシャトルランや持久走でも、頑張ってきた。大学に入ってからは全く運動はしていないが、身体は覚えているものである。

 ぐうたらな日常を過ごす人間が、ほんの少し走っただけだが息があがらずに、追いかけっこができる理由である。

 さて、私は運動というものが嫌いである。特に集団で行うものは大嫌いだし、対戦しなければならないものも拒否したいし、そも努力なんぞ世界から捨ててしまいくらいだ。(私個人の辞書には、「努力」の文字は消えかけている)

 そんな私だが、実は歩く・走るはそこまで苦手ではない。確かに競争の面はあるのだが、自分との闘いであるほうが前面に出やすいからだろう。まったくもって単純である。

 実は退職後に毎日ジョギングくらいはしようかなと考えたこともある。まっこと綺麗になかったことになっているが。(あ、だからといってこれからやろうとかではない)

 ”走れる“ということがわかった。という事実があっただけである。

 ただただ、走れなくなっているだろうな、と思っていたのだが、少しでも走れるのだなとわかった、という事実が、今日あっただけなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ