2024年2月7日 どく
私はこの家族にとって不要な人間なんだろうな。と時々思うことがある。昔から、私の意思、存在、行動は考慮されないことが時折あるからなのだが、それは生きている以上、仕方のない部分もあるだろう。私の自意識過剰であることは否めない面があるのも事実だ。
だが、なぜ私はこんなにも家族の言動に敏感なんだろうか?言葉の奥の感情を読み間違えてしまっているからというのもあるのだろうが、それにしても、私という存在への不要感をここまで思い込めるほどか?
いや確かに幼い時から、家族とは相容れない何かがあってすれ違うことは多かった。価値観も考え方も生来持つものと教育されたものが違うのは、現在実感しつつあることでもある。
それでもどうしてこれほど家族と価値観や考え方が合わないのだろう?血のつながった家族であっても他人であるのだから、仕方のないことと諦めてしまえばいいのだろうか?
小学6年生の頃から悩み始めたこの思いに、未だに答えも諦めもつけられないのは、私がなんの行動も起こさないのが悪いのだろうか?
ぐるぐるとらせんの中をさまよっているだけの無駄な感情に時間を取られるのはもったいないとわかっているのだが、どうにも解決できないまま年月が経ちすぎている訳だ。問いかけを変えるのも、問いかけの見方を変えるのも、もうどうやったら良いのかもわからなくなってしまったのは、歳をとりすぎたからか?
ここに残っていなくちゃいけないと思わされている感情と、ここから離れなきゃいけないと思わされている感情の、どちらが“私”の感情なのか、私に判断つけられるのかどうかわからないけれど、見極めなければならない。
私がこの家族にとって不要な人間であるなら、「立つ鳥跡を濁さず」で去らなきゃいけないかもしれないから。




