すっぴんです。決して化粧じゃありません!
――今度こそ成功してやる。
そう意気込み、一人の少女が急な坂を駆け上がっていた。
彼女の名前は松谷佳音。この度、新しく高校に入学した一年生である。
高校は、彼女の地元から少し離れている。それは『新しい出会い』を求めてのことだ。
体育館に着いた。もうすでにたくさんの人が集まっている。
女子はみんな佳音と同じセーラー服姿で、一方男は学ラン。私立学校なのに結構昔風なのだなと驚きつつ着席する。
校長が出てきて、お決まりの言葉を述べ出した。
「ようこそ〇〇高校へ。新しく我が校の生徒となる君たちへ……」
その話を聞き流しながら佳音は、周りの生徒たちを見回した。
親などはいず、座っているのは生徒だけ。親はこの学校では、入学式などにはやってこないことになっているらしい。
ざっと新入生は五十人ほど。かなり少ないのは、それだけこの学校が難関だからなのだろうか。
そうしているうちに、校長が話し終えていた。
吹奏楽部の子たちが歓迎の音楽を吹き鳴らす。それが終わると、担任発表が行われた。
佳音のクラスの担任は、二十代くらいの若い女性教諭だった。
彼女は生徒たちを教室へ連れていこうとし、ふと佳音を呼び止めた。
「あなた、お名前は何?」
「……え、ええと。あたしは……松谷佳音です。な、なんですか……?」
恐る恐る尋ねてみると、先生は少し怒った様子で佳音を睨んで言った。
「松谷さん、お化粧してるでしょう? さっき校長先生が校則で化粧は禁止って話していらっしゃったの、聞いていなかったの? 今すぐ洗い落としてきなさい」
佳音は「え……」と思わず声を漏らす。
だって、彼女は化粧などしていないのだから。
周りの新入生たちの視線が集まる。それが、まるで氷のように冷たく感じられた。
これは違うと、冤罪だと答えたいのに声が出ない。過去の嫌な思い出がフラッシュバックした。
佳音は中学時代、孤立していた。
彼女は長年、『化粧顔』に悩まされてきた。
整った眉、赤い唇、目鼻立ちの濃い顔つきなどが化粧しているかのように思わせるのかも知れない。
中学一年生の時に勘違いされ、怒られたことがある。
そのせいで一度、親と教師が対立。結局有耶無耶になったもののそれからというもの周囲からハブられてしまった経験があるのだ。
佳音の性格も性格。何か責められても、即座に反論できない。いわゆる引っ込み思案なのである。
それから中学校を卒業するまで、ろくに友達ができないままだった。
……そんな過去があるものだから、余計に対応に困ってしまう。
なんと言ったらいいのか。なんと言ったら嫌われないで済むのか。
また、同じ過ちを繰り返すのか。
地元から逃げたくて必死に勉強し、この高校へやってきたというのに、また――。
その時、一人の生徒が声を上げた。
「先生」
「はい?」
それは遠くの席に座っていた丸刈り頭の男子。背が高くかっこいい。恐らく新入生だろう。
彼は前に出て、言った。
「彼女はすっぴんです。決して化粧じゃありません」
「本当?」訝しげに眉を顰める先生。
佳音は慌てて首を縦にガクガクと振った。
「け、化粧顔……なんです。よく間違えられます」
「ふぅん」と唸って、先生は見逃してくれることになった。
彼には感謝しかない。佳音は軽く目礼した。お礼を言おうと思ったが、先生が歩き出したので、言う機会を逃してしまった。
ああ、名前もクラスも聞けてない。一体あの子は何だったんだろう……?
もやもやとした思いを抱えつつ、佳音はこれから毎日通うことになる教室へ足を踏み入れたのだった。
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クラスデビューはそこそこ上手く行った……だろうか。あまり自信がない。
地味な陰キャ、そう思われたのかも知れない。
入学式から数日後。
まだ馴染めてはいないが、学園生活には少しずつ慣れてきた頃、部活体験期間というものが設けられた。
みんなワイワイ言って、部活を探している。そんな中、佳音は一人ぼっちで歩き回っていた。
「何かいい部活はないかなあ……」
別に興味のあることは、大してない。
スポーツ部、文芸部、美術部などを見学したが、特段やりたくならない。
でもこの学校は部活は必須。一体何にしようか、と考え込んでいたその時。
「よう、ちょっといいか」
突然声をかけられて、佳音はぶったまげた。「きゃっ」
「何驚いてんだよ」
声の主は、いかにもカースト上位らしい先輩男子生徒。
見るからにチャラ男という風で、茶髪ロン毛だった。
「え……」
嫌な予感がして身を固くしたが、そこまで警戒する必要はどうやらなかったようだ。
「なあお前、部活見つかんねえだろ? だったら俺らの部に入れや」
「な、何の部活……ですか」
「いいからいいから。とにかくついてこい」
――でもこれってナンパじゃない?
そんなことを思いつつ、強引に腕を引かれて佳音は彼について行った。
そして案内された先、そこで待っていたメンツを見て、佳音はまたまた驚いた。
一人は、スラリとした美人のお姉様。顔つきが凛々しくクールビューティーな印象。
そしてもう一人はというと……。
「あ、あの時の」
入学式の時、佳音を助けてくれたあの男子生徒。彼がそこにいたのである。
「やあ君か。黒木先輩が連れてきたんだね」
「は、はい……?」
突然話しかけたものだからびっくりしてしまう佳音に、「ああごめん」と言って彼は名乗った。
「僕は小栗川功。この前はごめんね。迷惑だったりしたかな?」
「い、いえ。あ、あ、あ、あ……」
首を横に振りながら、何か言おうと佳音は口を開く。
しかしそこから出てくるはずの言葉は喉元でつっかえてしまい、どうしても出てこなかった。
「ありがとう」と言いたいだけなのに。
先輩が喋り出したことで、その機会はなくなってしまった。
「そうそうこいつが新入りだ。新入り、こっちが三年の真白先輩で、このチビがお前と一緒の一年の小栗川。仲良くしてやってくれ」
「私は真白日菜子。あなたは?」
問われ、佳音はドギマギしつつ蚊の鳴くような声でやっと答えた。「……松谷佳音、です」
まさか彼らとまともに話せるようになるくらい仲良くなるなんて、この時の佳音にはとても想像できなかったことである。
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部活は冒険部と、結構マイナー……というか、厨二臭のぷんぷん漂うものだった。
黒木先輩の言葉にしがたい圧力と、何よりあの少年――小栗川くんがいたおかげで、佳音はまもなく入部。
他にも新入生がたくさん黒木先輩に連れられて来て、十五人ほどで部活が開始した。
部活内容を簡単に言えば、冒険ごっこだ。
ロープを巻き付ける練習、ヤシの実を割る、サバイバルの服作り、などなど……。
それを嫌がってか、体験入部期間が終わるとすぐに辞める者が続出。気づけば部員は佳音と小栗川くん、黒木先輩、真白先輩の四人だけになっていた。
部活というより同好会という感じである。
でも佳音には、この部活が肌に馴染んだ。
人数が多くないのも逆に良かったし、まじめな活動内容も気に入っていた。
――おかげで毎日が楽しい。
他の人と話すのは苦手だったが、部活のメンバーとだけは安心して話せるようにもなった。
クールでありながら真白先輩は優しいし、小栗川くんはさりげなく気遣ってくれる。それに、黒木先輩も面倒見が良くて意外といい人だったのだ。
「僕たちだけじゃなく、他の女の子たちとも友達になってみたらどうかな?」
小栗川くんに勧められるがままに、佳音は友達を作ってみることにした。
最初はかなりおどおどしていたが、意外に「友達になろう」と言ってくれる人が多くて驚いたものだ。
肩の力を抜いて皆と話せるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
「と……、友達、できたよ」
「そうか。それは良かった」
しかし、妙なことが一つだけ。
それは、小栗川くんといると何故か胸がドキドキするということだ。
何故だろうかと考えてみたが、まだ男慣れしていないせいに違いない。
引っ込み思案の佳音が今まで同年代の男子と話したことなんてほとんどなかったのだから。
そんなふうに過ごすうち、あっという間に時は過ぎていった。
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そして秋のある日、冒険部の活動の一環として、フィールドワークが行われることとなった。
学校からほど近い林へ出向き、そこで冒険ごっこをする。まるで小学生みたいだとどうか笑わないでほしい。この部活は、本気と書いてマジと読むようなそれなのだから。
「無人島のジャングルで丸一日過ごすという想定でいきましょう。いいわね?」
部長の真白先輩がそう言った。佳音たち下級生は躊躇いなく頷く。
いくら丸一日とはいえ、こんな林の中で過ごすのは大変だ。
まず限られた食料――生肉が一欠片で生き抜かなければならない。
それももちろん分けるのだから、一人分は少量だ。これはつらい……。
この林は学校が所有するものだから、大抵は何をしても怒られない。
林で心ゆくまでサバイバルを楽しんだ後は空腹が部員たちを襲った。
「もう夜も近いし、そろそろ夕食にすっか」
黒木先輩の意見に全員賛同した。
まずは生肉を焼くため、火焚きの準備をしよう。
焚き火のための薪を集める。
佳音は一人、林の奥で小枝を拾っていた。
「うんしょ、うんしょ……」
冒険部は本当に楽しいな。
そんなことを思いつつ、そろそろ戻ろうとしたその時だった。
「功、明日は……」
「はい大丈夫ですよ。日菜子先輩の……」
少し離れた場所から声が漏れ聞こえてきたのだ。
あの声は小栗川くんと真白先輩。佳音は思わず聞き耳を立てた。
「じゃあそういうことで頼むわね」
「はい。嬉しいです」
身を固くする佳音。
これは聞いてはいけないものを耳にしてしまったのではないだろうか。
小栗川くんが、先輩のことを下の名前で呼んでいた。それに先ほどの意味深な会話。全てが聞こえたわけではないがこれは確実に、
「で、デートの約束……?」
――二人が付き合っているのだ。
その考えに至った瞬間、佳音の胸がいつになく激しく高鳴り始めた。
どうしたら、どうしたらどうしたらどうしたら。
何をそんなにドキドキしているのか自分でもわからないが、頬が急速に熱くなるのを感じる。
そして佳音はなりふり構わず走り出し、黒木先輩の待つ、キャンプ拠点へと急いだ。
「どうしたんだ? 顔色悪いぞ」
「べ、別に……なんでも、ないです」
前々から小栗川くんと真白先輩の距離が少しばかり近いようには感じていた。が、まさか付き合っていただなんて。
だからと言って何でもないはずなのに、胸が焼け焦げるように苦しい。
黒木先輩に話してしまおうか、と佳音は考えた。
しかしすぐに二人が戻ってきてしまったのでその考えは引っ込めるしかない。その後の焚き火の夕食はろくに集中できず、周りに迷惑をかけてばかりで。
「あたしは何してるんだろう……?」
呟いた瞬間、知らず、涙が溢れ出した。
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「どうして、涙が……?」
自分の目から流れたそれを指で拭き取り、佳音は驚く。
でもそれは止まらず、次から次へと流れ出してきた。何にせよ、涙を見られたくはない。佳音は慌てて「ちょっと……」と言い残して逃げ出した。
真白先輩が「どうしたの?」と訊いてくるが、構うものか。
何故、涙が出てくるの? 何も悲しいことなんてないはずなのに。
走って走って林の奥へ戻ってきた。
一体どうしてしまったのだろう。キャンプに疲れてしまった……とは思いづらかった。
ではこの涙は何?
「……あ」
その時、佳音は突然に――否、きっと心の奥底ではずっと前からわかっていたのだろうが――気づいた。
「も、もしかしてあたし……小栗川くんのことが」
「松谷さん」
続けようとしていた言葉を寸手のところで呑み込む。
パッと振り返ると、そこには今名前を口にしたばかりの人物がいた。
「小栗川くん、どうして……」
「松谷さん、どうしたんだい? 急に走り出したからみんな心配したんだよ」
そりゃそうか。あんなあからさまな逃げ方で、ほうっておいてもらえるはずがない。
佳音は己の馬鹿さを改めて感じた。
「べ、別に……大丈夫、だから。全然平気……だよ」
そんなことを言っても、頬に涙の跡が光ってしまっていては、何の意味もなさない。
小栗川くんは佳音の前でそっと座り込んだ。そして彼女をまっすぐに見つめる。
「君と二人きりになったのなんて、初めてだね」
「え……」
全然別のことを言われると思っていたせいで、変な声を漏らしてしまった。
でも確かに考えてみれば彼と二人になるのは初めてだが……それがどうしたのだろう?
「実は、君にずっと言おうと思っていたことがあったんだ。こんなところこんな時に言うのは勝手だってわかってるけど、言わせてくれないかな」
「……うん」
「僕ね、実は中学一年の時、君と同じ学校の、一緒のクラスだったんだよ」
佳音は驚いた。驚いて、声も出なかった。
中学一年生。それは佳音が孤立するきっかけとなったあのクラスの話だ。
そのクラスメイトの中に、小栗川くんがいた?
「あの時は髪の毛を伸ばしていたしずいぶんと背が低かったから、君が気づかないのも当然だよ。でも僕はあのクラスにいて、君をすぐ後ろの席から見ていたんだ」
ここまで言われて、佳音は「あっ」となった。
思い出した。確か一つ後ろの席、そこに小栗川という男子生徒がいたように思う。どうして今まで覚えていなかったのかが不思議なくらいにはっきりと思い出せた。
「あ、あの時の……小栗川、くん?」
「そう。そうなんだ。当時は今よりずっと非力で、君を助けてあげられなかった」
それから彼は、中学時代の思い出話を語り出す。
いじめられている佳音を見て、ずっと不憫に思っていたこと。止めようとしたがクラスの上位の男どもに脅されていじめに加担してしまったこと。
「だからそれを謝りたくて、君の進学するこの高校へ来た。けど、これを言ったら君がどう思うんだろうって怖くて、ずっと言えないでいたんだ。本当にごめんよ」
……何を言っていいのかわからない。
小栗川くんは自分の過去を知っている。そう思うと佳音の体は硬直し、動かなくなった。
今までそんなことも知らずに彼と接していたのか。
先ほど抱いた気持ちなど全部吹き飛んで、佳音は再び泣き崩れた。
一体何で泣いているのか、もはやわからなかった。
泣いて泣いてまるで子供みたいに泣き続けて、迎えに来た黒木先輩に宥められても泣き続けて。
その夜は寝袋にくるまって眠ったものの、次の日は己が惨めすぎて学校を休んでしまうほどだった。
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あの日から、小栗川くんと言葉を交わさないようになった。
部活に行くのも億劫で、何かと理由をつけては学校を休む。あんなにもあの場所が好きだったはずなのに……。
佳音はすっかり塞ぎ込んでしまって、家で一日中勉強だけしているようになった。
勉強をしている間だけは、何もかもを忘れられるから。
そんなある日のこと、突然ドア・チャイムが鳴ったことから事態はまたも動き出した。
「はーい……?」
佳音は高校に通うため、親に金を払ってもらって小さなアパートで一人暮らしをしている。
だから不審者が来た時の対策として、いつも恐る恐る鍵穴から向こうを除くように癖づけているのだが……。
「……ぁ」
鍵穴の向こうに見えた姿に、目を見開いた。
だってそこに立っていたのは、真白先輩だったのだから。
家の場所だって教えていないはずなのに、どうして先輩がここに?
「佳音ちゃん。ちょっと中に入れてほしいのだけどいいかしら?」
ドア越しに声がする。
佳音はかなり躊躇った。真白先輩がどうしてこの場所を知り、何のためにやってきたのかがわからないからだ。でも追い返すわけにもいかなくて、そっとドアを開けた。
「お、お、お久しぶり……です」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だから。失礼だけど上がらせてくれない?」
これも断れずに、先輩を中へ通してしまった。
――リビングにて。
佳音は緊張に体をモゾモゾさせていた。一体どんな話題が飛んでくるのか。何の話にせよ、まともに答えられる気がしない。
だって真白先輩は小栗川くんの。
「先生にこの場所を教えてもらってここまで来たの。急にごめんなさいね? 最近学校に来ないから心配してたのよ。あのキャンプの日に何があったの?」
佳音は押し黙っていた。
一言でも喋ると、何かが漏れてしまいそうで。
「功が『悪いことをした』って気落ちしてたわ。何があったのかって聞いても、あなたに悪いからって教えてくれないのよ」
小栗川くんは小栗川くんなりに考えてくれているのだろう。
しかし彼の配慮を無視して、真白先輩は単独で佳音の部屋まで上がり込んできた。その勇気はすごいと思った。
「教えてちょうだい。私、佳音ちゃんを手伝ってあげたいのよ。功のことが好きなんでしょ?」
意味が、わからない。
だって真白先輩は小栗川くんの彼女。なのにどうして「手伝ってあげたい」などと言うのだろうか?
よほど変な顔をしていたのだろう。「何がそんなにおかしいの?」と聞かれたので、思わず答えてしまった。
「真白先輩、は……、こ、小栗川くんと付き合ってるんじゃ……?」
けれど、真白先輩は「プッ」と吹き出すと、
「まさか。どこからどう見たらそんなふうに見えたの? 私にはもう、別に好きな人がいるわ」
聞き間違いかと思った。
だって、「え?」となる他ないではないか。もしや完全に、佳音の勝手な勘違い?
気づいた瞬間、彼女は顔から火が出そうになった。
「あっ、あ、あ、えと、その、あ、ご、ごめんなさい……っ」
単なる勘違いで自分は心を痛めていたのか。そう思うと恥ずかしいやら情けないやらでたまらなかった。
先輩の話では、小栗川くんとはただ普通に接していただけなのだとか。それが恋人同士の関係に見えるというのは、佳音が人付き合いに疎すぎたせいだろう。
「いいのよ気にしなくて。で、本題に戻るけど。あなた、功のことが好きなんでしょう?」
再度の問いかけに、佳音は顔を赤らめながら小さく頷いた。
真白先輩は「なら」と言ってじっとこちらを見つめてくる。
「アタックしなければ何も始まらないわよ。自分の気持ちが定まっているんだったらそれを伝えるの。いい? 恥ずかしがってはダメよ」
佳音は一瞬躊躇った。
逃げるのか、立ち上がるのか。
告白なんて怖すぎる。今までの小栗川くんとの関係を壊したくないし、それに彼は佳音の惨めな過去を知っていた。
でもこのまま内にこもっているだけじゃ何も良くならない。きっと、この恋は永遠に叶わないものとなる。だから――。
「は、はい……」心を決めて、そう答えていた。
******************************
「小栗川くん……。この前は、ごめんね……?」
久々に登校した佳音は、隣のクラスへ行って小栗川くんに喋りかけた。
彼は「松谷さん」と言って駆け寄ってくる。
「こっちこそごめん。傷つけたかな?」
「ううん……。全然、大丈夫。あ、あのね、小栗川くん」
他の生徒がジロジロとこちらを見ていた。
しかしそんなこと、今の佳音の眼中にはない。ヒソヒソ声で「化粧女だ」と囁く声も、聞こえない。
佳音は震える声で、叫んだ。
「あ、あたし……小栗川くんのこと、す、す、す、好きぃ!」
言った。言った。言ってしまった。
胸がドキドキする。頬が焼けるようだ。息が荒く、頭がぐらぐらした。
小栗川くんの方を見た。彼は少し驚いたように目を見開いて、
「松谷さん、先輩と付き合ってるんじゃなかったのかい?」
「……えっ」
話を聞いてみると、どうやら小栗川くんの方も勘違いをしていたらしく、黒木先輩と佳音が恋人同士になっていると思い込んでいたらしい。
確かに佳音は先輩とも親しくしていた。もちろん、恋人同士などではないが。
「そうだったのか。誤解していたみたいだ、ごめん。実は僕も、君のことをずっと想っていたんだよ」
同級生の視線が向けられるのも構わず、二人は思い切り抱き合う。
なんてことだろう。実は互いに好き合っていたなど、夢みたいだ。
小栗川くんの胸の中に顔を埋めながら、佳音は幸せを噛み締めたのであった。
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――それから二人は相互相愛で付き合い始める。
先輩たちに祝福され、やがて結婚することになるのはちょっと先のお話。