第三章「深海の石像」その2
飛び出してきたの大学の職員だった。息も絶え絶えに俺たちの方を見ると何も言わずに、エレベーターの方へ走り始めた。
「どうかしたんですか?」
そう尋ねると、職員は振り返った。
「俺は……俺は何もしてない……ちょっと触っただけだ……俺は悪くない」
完全に錯乱している。
「ちょっと待ってくれ、何が……」
「あぁああああ!」
職員はまたしても叫び出し、エレベーターの方へ走っていった。この錯乱の仕方、ただごとではない。
「もしかしたら邪神絡みかも知れぬぞ?」
俺もアスタロトと同じ考えだった。
「香織、ここで待っててくれ」
「えっ、ちょっと……」
香織が止める間もなく、俺は関係者用扉を潜った。その先は長い廊下となっていて、左右にいくつか扉があった。切れかけの蛍光灯が、断続的に空間を照らす。少し離れた扉だけが、開け放たれているのがわかる。俺は開いている扉に近づき、背中を壁につけ、慎重に中を覗いた。
人だ。沢山の人がいる。25mプール程度の広さの空間に、30人くらいの人影が見える。しばらく様子を伺ったが、話し声どころか誰一人、身動きひとつしない。
俺は意を決して中に入った。誰も俺に見向きもしない。恐る恐る近くの人に声をかけようとした時、この部屋状態を理解した。
これはマネキンだ。
いや、マネキンというには精巧すぎるものだった。まるで本物の人間にしか見えないが、瞬きひとつしないし、呼吸もしていない。その石の様に硬い肌からも、これが作り物であることは間違いなかった。しかし、これだけの人形を何のために?
パキ、パキ、グチャァア
板チョコでも割る様な音と、ひき肉を混ぜているようなねっとりした音が奥の方から聞こえる。マネキンを避けながら、音の方へと向かう。
マネキンの間から覗くと、奥でマネキンが倒れているようだ。倒れた拍子に壊れたのか、腰と首の辺りでポッキリ折れている。しかし、俺の眼はそのマネキンの上のものに釘付けになった。
緑色で玉虫色に光る人の頭程度のスライムのような塊が、マネキンの上で蠢いていた。それが動くたびに、グチャグチャと耳障りな音がして、マネキンがパキパキと崩れていく。俺は本能的に緑のそれが、マネキンを捕食しているように感じた。
その時、何もなかった緑色の表面に、真っ赤な目のようなものが現れ、俺はそれと目があったように感じた。すぐさま踵を返して、マネキンの間を抜い、元きた道を引き返す。
「どうした?何故逃げるのじゃ?間違いなく邪神絡みに違いないぞ?」
「わかってるよ!だけど近くには香織が、上の階にはニーアがいる。まずは、2人を施設の外に出さないと」
俺は転げるように、深海魚エリアに戻った。その姿をみた香織は、奇妙そうにこちらを見つめる。
「どうしたの?何かあったの?」
詳しく説明している暇はない。一刻も早く、このエリアから香織を連れ出さなければ。
「後で話す!取り敢えずエレベーターに乗るぞ!」
エレベーターの呼び出しをしたが、現在位置は地上5階。まだ上に移動している。
「くそっ!」
「ねぇ、どうしたの?」
「後で話すから!取り敢えずこのエリアから出て、早くニーアと合流しないと」
事情を知らないからか。香織は落ち着いたものだ。
「ふーん。そうだ、見てもらいたかったもの、まだ見てないよね?妹さんに会いにいくのはそれからにしようよ」
ん?何だ?何を言ってる?
「すぐ済むからさ、こっち来てよ」
香織はまた、エリアの奥の方へ歩を進める。
「お前誰だ?」
こいつは、香織じゃない。
「何言ってるの?香織だよ?」
歯に噛むように答えるその目には、光がないように感じた。
「ニーアはな……俺の妹じゃないんだ。お前も知ってのとおりな。お前、今日初めて俺とニーアに会ったな?」
しばらく沈黙が訪れる。
ポーン
エレベーターが到着した。その瞬間、香織の腕がカメレオンの舌のように伸び、俺の胸ぐらを掴んだ。俺を掴む腕は、みるみる内に緑色のスライムのように変化して行く。
「いいからだまって通路の奥に来れば良いんだよぉ!」
香織の姿をしたそいつは、ものすごい力で俺を通路の奥へ投げ飛ばす。空中でエレベーターのドア閉まるのが見えた。
「っ、つぅ」
床に叩きつけられ、まだ立ち上がれない俺の胸ぐらを再び掴み、持ち上げる。
「手間取らせんじゃねーよ、めんどくせぇなぁ!」
声も姿も香織のままだが、酷い口調だ。捕まれているスライム状の腕を殴るが、めり込むだけで全く効き目がない。俺に何を見せようというのかはわからないが、間違いなく見てはいけないものだろう。このままではまずい。幸運にも、両手と口は空いている。
「コール!セーレ!」
視界は光に包まれる。光が晴れると施設の入り口横に転移していた。色々、状況を整理したかったが取り敢えずニーアと合流するために施設内に戻った。
奥のマネキン部屋にいた奴と、香織のふりをしていた奴は同じやつだ。恐らく昨日別れてから入れ替わったのだろう。香織は無事なのか?あいつは俺に何を見せようとしていた?見たらどうなっていたのだ?
走りながら色々考えていると、イートインコーナーでアイスを食べている白髪の女の子が目に入った。
「ニーア!」
「あっ、兄さん。どうしたのですか?そんなに慌てて?」
「話は後だ。取り敢えずこの建物から出よう!」
俺はニーアを施設の外に連れ出して、さっき起こったことを説明した。こんなことを信じてくれるのはニーアくらいだ。
「間違いなく、この施設内に邪神が潜んでいる。しかも、人間に化けていて、見た目では判別できない」
「お話を聞くに、その邪神は少なくても2体以上はいるってことですね。施設の内の人間も、もしかしたら全員邪神かもしれない」
確かにその可能性もあるが、地下5階でしか襲ってこないところを見ると、まだ大多数は人間である可能性が高い。中が危険なことに変わりはないが。
「ニーアは家に帰るんだ。俺はもう一度深海エリアに行ってくる」
香織の行方がわからない以上、ゆっくりしている時間はない。俺が逃げたことで、奴らも行動を開始するはずだ。施設内に戻ろうとした俺の腕は、急に後ろに引っ張られ、危うくすっ転ぶところだった。腕を掴んだのは勿論ニーアだ。
「私も一緒に行きます」
そう言われる気はしていたがダメに決まっている。俺の表情から言いたいことを感じとったのかニーアは話を続ける。
「邪神のことを知ってるのは、兄さん以外には私だけです!兄さんに何かあったら助けられるのは私だけです!それに……」
自分と同じような人を増やしたくない、か……
口に出さなくてもニーアの気持ちは伝わって来た。
別れてから一人で追いかけてくるよりかは、初めから一緒にいた方が安全か。
「わかった。ただし、ちょっと待ってくれ」
ポケットから召喚札を取り出す。
「コール!アスモデウス!」
左手の甲の三角陣に、赤黒い長い髪、褐色の肌、漆黒の角と羽を生やした女性が浮かぶ。
「我はソロモン72柱が一柱。地獄の王、アスモデウス……ん?アスタロトはどうした?」
さっきまで俺の後ろ飛んでいたのだが、気づけばいなくなっている。
「まぁ良い。対象はこの娘で良いのだな?」
左手をニーアへ突きだすと、ニーアの右手の甲に、アスモデウスの魔法円が浮かび上がる。
アスモデウスの権能は、他者を無敵にする。流石は地獄の王だ。
「これでこの娘は、肉体的、魔術的、呪術的に傷つくことはない。終末の炎でも生き残るだろう。アスタロトによろしく言っておいてくれ」
アスモデウスは姿を消した。
「よし、ニーア。アスモデウスの権能が、今日1日ニーアを守ってくれる。でも無茶だけはしないでくれ」
ニーアは、静かに頷いた。
「アスモデウスの守りがあるなら、この星が割れん限りは大丈夫じゃろう。じゃが、精神が強くなる訳ではない。気をしっかり持たせておくことじゃの」
「何だ、お前なんで隠れてたんだ?アスモデウスが話したそうだったぞ?」
「妾は話すことなどないわ」
仲が悪い、というよりは一方的にアスタロトが嫌っているようだ。
「さて、じゃあ行くぞ!」
俺たちは今一度、邪神の潜む深海へ出発した。