第一章「6本の腕」その1
1000年以上前、まだ人間達は神や悪魔達と関わりを持ち、敬い、恐れ、時にはその力を借り、生活していた。しかし、時と共に人間達はその存在を空想の産物とし、自分達こそがこの世界の支配者であると信じて疑わなくなった。
そんな現代の静かな夜、ひとりの青年は、普段信じてもいない神や悪魔に必死に祈りを捧げていた。
(頼む!神でも悪魔でもいいからなんとかしてくれ!)
あまりの緊張と興奮状態のせいなのか、1秒、1秒が途轍もなく長く感じる。
俺は月明かりが照らす、薄暗い廊下にへたりこんでいた。目の前の壁からは、無数の細長い何かがこちら側に突き出て、激しく暴れ回っている。
その先端は鋭利な刃物のように見えた。何かは廊下中を探るように唸り、這いずりまわり、触れる壁や床に爪痕を刻みつけている。もし見つかったら、この壁や床と同じ運命を辿ることになるのは間違いないだろう。
今日の昼間には、いつもと変わらないキャンパスライフを送っていたのに、どうしてこんなことに……
同日、PM12:15
突如、部屋が明るくなり目が醒める。俺は机に突っ伏していた頭を上げ、眼を擦った。
壁の時計を見ると12時を15分過ぎたところだった。くそっ、講義時間を15分もオーバーしてるじゃねーか、と思いながら周りを見ると、他の生徒達も頭を上げ始めていた。
何故、皆が真面目に講義を聞かずに夢の世界に旅立っていたのかと言うと、教授の思い付きで、今日の講義が映画鑑賞になったからだ。
しかもその映画が、風景映像や戦争の映像が眠たくなる音楽に合わせて流れるだけの良く分からないもので、残念ながら俺を含む殆どの生徒は脱落してしまったようだ。
「じゃあ、来週には映画の感想文をレポートとして提出すること」
教授の無慈悲な一言に、観てない映画の感想文をどう書こうかと考えながら、俺は教室を後にし食堂に向かった。
食堂の窓際席に腰を下ろし、鞄から弁当箱を取り出す。窓の外に眼をやると、水平線の上をカモメが飛んでいる。
この俺、大星 護の通う海洋帝国大学は、海上に埋立てられた人工島の上にあるのだ。というよりも、この大学そのものが人工島と言うべきか。この立地は海洋生物の研究に便利で、海底に研究施設もある。本土までは、自転車で15分程の橋が架かっていて、シャトルバスもあるので通学も苦にならない。俺はここで、海洋生物学を専攻している。
「おっ?護は今日もお手製弁当か。マメだねぇ」
そう言いながら、俺の向かいに座った金髪の男は、友人の加賀美 勇輝だ。学業よりもギャンブルを優先する碌でもないやつだが、悪い奴じゃない。
「学食ばかりだと、栄養のバランスが偏るんだよ」
「相変わらずの健康オタクだな。俺は旨けりゃ何でもいいや」
そう言って、加賀美は持ってきたカツ丼をかきこみ始めた。俺は子供の頃に病弱だったこともあり、健康には気を遣っている方だが健康オタクではない。
「そういや加賀美、さっきの講義ちゃんと起きてたか?」
「知らないのか?俺は普段の講義でも意識がある方が珍しいぜ」
聞く相手を間違えた。このままではレポートが書けない。どうしたものか。
「大星君?ちょっと良いかな?」
振り返ると、同じバーガーショップでバイトをしている小野寺 唯が近づいてきた。潮風に靡く、黒髪ロングがとても似合っている。
彼女は大学でも有名な美少女で、成績も性格も良く、まさに才色兼備といった娘だ。
「今日のシフト、代わりに入ってもらえないかな?どうしても外せない用事が出来ちゃって、お願い!」
「小野寺さんのシフトは確か、18時から23時だっけ?いいよ、別に」
「ありがとう!今度また何かお礼するね」
いいことを考えた。
「じゃあ、さっきの映画の内容を教えて欲しいんだけど」
生真面目な彼女なら、講義中に寝るなんて絶対にしない筈だ。
「ふふっ、寝てたのね?まぁ、信じられないくらいつまらなかったからしかたないか。いいわよ、明日、メモに内容と感想も書いてきてあげる。じゃあ、シフトのほうはお願いね」
彼女が立ち去ると、カツ丼を食べ終わった加賀美が話し始めた。
「彼女、俺に気があると思うんだよね。この間も、もう少しで電話番号を教えてくれそうだったんだ」
実は俺はもう知っているとは言えず、軽く流すことにした。
「おっと、そろそろ午後の講義が始まるな。じゃあな、唯ちゃんの代わりにバイト頑張れよ!」
俺は加賀美と一緒に食堂を出て、トイレに昼食後の歯磨きに向かった。食堂に帰ってきた頃には、殆ど周りに人はいなくなっていた。俺は午後の講義は無いので、バイトまでどうやって時間を潰すか考える。
「おっ、護じゃん。あんたさっきの講義ずっと寝てたでしょう。レポートどうすんの?」
そう言いながら、俺の前の席に座ったポニーテールの女は、月城 香織。俺の幼馴染だ。俺が県外の高校に行ったから、一緒に居たのは中学までだが、まさか大学で再会するとは思ってもみなかった。
「内容教えてあげてもいいわよ。」
「そいつはもう解決済だ」
「えー、せっかく貸しを作れると思ったのになー」
「お前、あれを最後まで見たのか」
「結構面白かったわよ」
こんな身近に完走者がいたとはな。しかしこいつの場合、見返りに何を言いだすかわかったもんじゃないから、小野寺にお願いできたのは幸運だった。
「で、一人で何してんの?」
「バイトまでの暇つぶしだよ。一度、家に帰えろうかと思ってたところだ」
「あんたの家ってバイト先と反対だし、しかも自転車移動でしょ?1日何キロ自転車漕ぐつもりよ」
「運動不足は身体に良く無いからな」
「ホント健康オタクになったわね。感謝しなさいよ?今のあんたが健康なのは、私の愛のおかげなんだから」
またその話か。昔、香織が海外旅行で見つけてきた魔除けの壺を貰ったのだが、丁度その頃から俺の病弱は良くなってきたのだ。その後、香織は度々怪しいオカルトグッズを買ってるようになり、俺もいくつか押し付けられたものだ。
「成長して、順当に体力がついただけだろ」
「またまた、照れちゃって。そう言えばさ、明後日が何の日か知ってる?」
「ん?急に何の話だ?大学の創立記念日だっけ?」
「なーに惚けてるの。可愛い幼馴染の誕生日でしょ? 誕生日プレゼント期待してるわよ」
そう言って香織は去っていった。確かに俺の誕生日にはプレゼントをもらったな。羽の生えたリアルなライオンの首飾りという微妙な代物を。
しかたない、バイトまでの時間で、香織に負けないくらい微妙なプレゼントを探すとするか。
俺は自転車に乗り、本土へ向かった。
本土海沿いの堤防近くには、大学生をターゲットにした、軽食や小物売りの出店が並んでいる。香織の趣味に合いそうな店を物色していると、古めかしい本やら、何だかわからない置物やらを並べている店を見つけて、俺は足を止めた。
「いらっしゃい」
店主の爺さんがボソッと言った。商売気のない店だな。
しかし、品揃えは良さそうだった。何に使うのかわからないガラクタが乱雑に広げられている。
側面に謎の生物が彫り込まれた黒い小箱を手に取る。小物入れにどうだろうか。しかし、鍵がかかっているのか開かない。
「それ、開かないのよ」
俺はそっと小箱を元に戻し、今度は古本を手に取った。中身は植物図鑑か?書かれている文字が全く読めない。
「それ、読めないのよ」
俺は古本も元に戻した。流石に本物のゴミを贈るのは気がひける。
するとガラクタの隙間に光るものを見つけた。指環だ。真鍮のリングに金の文字盤が付いていて、文字盤には六芒星が刻まれている。これならギリギリ実用的じゃないか?
「爺さん、これいくらだい?」
「720円」
安いな。なかなかよく作られているが、所詮は玩具か。香織には値段を黙っておこう。
俺は、買った指環を上着のポケットにいれて、バイトに向かった。
同日、PM11:45
バイトが終わり、再び大学の近くまで帰ってきた頃には0時近くだった。この辺りは、大学が使っていた古い研究施設跡が並んでいるだけで、この時間では人はおろか、車も通らない。いつものんびり、道の真ん中を自転車で走って家に帰るのだ。
すると自転車のライトに照らされ、道路を人が横切ったのがわかった。
咄嗟にブレーキをかけ、研究施設跡の方向へ消えていく人影を目で追った。
「今のは、小野寺さんか?」
今日の昼間の服装、黒くて長い髪、何より俺の両目とも2.0の視力でそう確信した。
こんな時間にこんなところで何をしているんだ。心配半分、好奇心半分で俺は彼女が消えた研究施設跡に向かった。
バタン
ドアが閉まる音が真っ暗な夜道に響く、小野寺は研究施設の中に入ったようだ。夜の暗闇に、真っ白な無機質な壁が、冷たく浮かび上がっている。
俺は、なるべく音を立てないように施設の入口に近づき、ドアに手をかける。
キィィ
鍵はかかっていない。少しだけ開けたドアの隙間から中に入った。
真っ暗な廊下が奥まで伸びており、左側に研究室が並んでいる。小野寺の姿は無かったが、一番奥の研究室から、ゆらゆらと揺らめく明かりが少しだけ漏れていた。
俺は見えない足下を探りながら、明かりの漏れるドアの前まで進んだ。カチャカチャと何かの音がする。古くなった引き戸は完全に閉まりきっておらず、隙間から中を見ることができそうだった。
心臓の鼓動が大きく、早くなるのがわかった。嫌な予感がする。このまま、引き返して家に帰るのが一番良い。余計なことをしないのが長生きの秘訣だ。しかし、人は危険だと理解しつつも好奇心を止められない。
俺は隙間から中を覗いた。
部屋の中は蝋燭の明かりで照らされているだけで薄暗かったが、研究室中央のベッドに小野寺が寝ているのが分かった。そして、天井から何本もアームのようなもなが垂れ下がっている。それはカチャカチャと音を立てながら、まるで生き物のように動き、その内の一本が小野寺の頭に近づいて行く。その先端には、明らかに鋭利な刃物のようなものがあるのがわかった。
この後の展開は想像に難くない。
「やめろ!」
咄嗟に声を出したものの俺の身体は、恐怖で動けずにいた。
「誰だ!?」
男の声、と同時に研究室の壁を突き破り、先程のアームが廊下に飛び出してきた。
来た道を塞がれた俺は、廊下の突き当たりへ逃げるしか無かった。
俺を探して暴れまわるアーム。
暗くてよく見えないが、壁や床を切り裂く音と、時折、明かりに照らされる刃の光が、俺に生きた心地をさせなかった。今にも恐怖で叫びそうなる悲鳴を必死に堪えると、代わりに涙が出てきた。どんどん近づいてくる荒れ狂う刃。血の気が引き、気を失いそうになったその時、どこからともなく低い声が響いた。
「死にたくなければ、指環をはめろ」
何?指環?
ポケットに手を入れると、香織に買った指環が当たった。
「死にたくなければ、指環をはめろ」
迫り来る刃。
「死にたくなければ、指環をはめろ」
俺には選択肢も、考える時間もありはしなかった。指輪を取り出し、左中指に差し込む。
「契約完了じゃ、これからよろしく頼むぞ。取り敢えず移動するか」
聞き覚えのない女の声と共に、視界は白い光に包まれ、目の前が真っ暗になった。