ファイル8 終わりと始まりもないもの
男は応え、女は求めた。
だけど、二人には、始まりがない。
何の装飾もない…冷たいドアを開けると、長谷川は部屋に入った。
四角い灰色の部屋の真ん中に、机が一つ。
その前に、男が1人いた。
長谷川は、男の前に座る前に、上着のポケットに入れていたカードを確認した。
その時、幾多の顔が唐突に、浮かんだ。
長谷川は奥歯を噛み締めると、カードを出すのをやめた。
いや、出す必要がないかもしれないからだ。
「失礼します」
長谷川は、男の前に座った。
幾多の事件から、部屋の外には、警官が待機していた。
「三宅哲郎さんですね?」
長谷川は事務所な口調で、哲郎に三宅に話しかけた。
「…」
男は虚ろな目で、机の上を見つめていた。
気付かない哲郎に、長谷川はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに、哲郎の前に座ると、その様子を凝視した。
これも、大切な材料となる。
しばし観察してから、おもむろに長谷川は口を開いた。
「三宅さん」
「あっ」
三宅は声よりも、長谷川の視線に気が付いた。
顔を上げた三宅の顔が驚きから、泣きそうな表情に変わった。
「お、俺は…」
40歳をこえたばかりの三宅が、まるで幼児のように見えた。
老けた…幼稚園児のようだ。
その瞬間の変化で、長谷川は三宅の性格を知った。
だが…それは、男なら誰でもあることだった。
子供ぽい。
しかし…。
長谷川は睨むではなく、微笑むでもなく、限りなく自然な表情で、三宅を見ていた。
(大人などいるのか…)
フッ。
長谷川は、心の中で笑ってしまった。
今日は、変なことを考えてしまう。
子供から成長しない男など、珍しくない。
そう…三宅は患者なのだ。
自分は冷静に、診断するだけだ。
(!?)
いつも通り診断しょうとした長谷川は…驚いてしまった。
いつのまにか無意識に、内ポケットに入れてあるカードに、手を当てていたからだ。
三宅哲郎に、殺害された2人の被害者の名は、遠藤茜と、滝村大毅。
2人とも、哲郎の知り合いであったことが、確認されているが、茜と大毅が出会ったのは、意外にも最近であった。
茜は知らなかったが、大毅と出会ったのは、哲郎の手引きがあったからだ。
3人の関係。
それは、とても奇妙なことだった。
茜は、スタンディングバーの店員であり、哲郎はそこの常連であった。
ガールズバーに近いスタイルをとっていた…そのバーは、店員が女の子ばかりの為が、ほとんどが男性客であった。
その為、女の子目当ての客が多い。
哲郎もその1人だったかもしれなかった。
それは、あからさまではなかったが、茜がいる日になぜか…足が向かっていた。
若い頃に結婚し、30歳後半で、離婚した哲郎は、その店の近くのアパートに1人暮らしをしていた。
離婚の原因は、わからなかった。
妻から突然言い出し、突然離婚することになった。
一度、嫌と決めた女の動きは早い。
一週間も経たない内に、離婚届に判を押し、妻と離婚した。
その代わり、慰謝料は取られなかった。
1人になって間もない頃、哲郎はその店を見つけ、茜に出会ってしまった。
茜の初対面でも気さくで、接客くさくない態度が、哲郎に好印象を与えた。
そして、いつのまにか、ほぼ毎日…店に通うようになっていた。
バーのなのに、11時に閉まる営業時間がよかったのか、哲郎は最後までいることが、多くなった。
その理由は、居心地が良いのもあったが、女の子目当ての酔っぱらいが、閉店までいて絡んでいるのを見たからが、大きかった。
哲郎は、知らず知らずの内に、女の子を守る為に、店にいることになっていった。
しかし、それは…。
最初は善意であったが、それが当然になった時、哲郎の中で、自分がただの客であるという意識ではなくなってしまっていった。
女の子を守ること。
頼まれてもいなかったが、哲郎はほぼ毎日、最後までいた。
そして、いつしか…その行為に酔いしれていた。
自分勝手だとしても。
そうなってくると、女はしたたかである。
比較的おとなしそうに見えた哲郎を、逆に利用していくようになった。
特に、茜はうっすらと自分に好意を持っていることに気づいていた。
だから、時に小声で、なかなか帰らない酔っぱらいに困っていることを、哲郎に告げることもあった。
普段おとなしい哲郎も、お酒が入っていることもあり、気が大きくなっている為、大声でその酔っぱらいを注意した。
茜に言われたことが、嬉しかったから、張り切ってしまった。
いつしか、客を注意する役割になっていった。
(なんだ、あいつは? )
他の客からクレームが来たが、店側は従業員でない為、哲郎が変わっているというだけで、すべての責任は哲郎にいき、店がデメリットを負うことはなかった。
店に都合よくなった哲郎を、茜はさらに利用することになった。
仕事で、哲郎が来れない日や、店が休みで、友達と遊んで遅くなった時は、哲郎を電話で呼び出し、送りをさせていたのだ。
そういうことを繰り返す日々で、哲郎の店での態度が少し、変わっていった。
茜が他の客と話している時は、明らかに不機嫌になり、酒をよく飲むようになった。
そして、ベロベロになると、他の客に絡むようになったのだ。
もともと、他の客から評判が悪くなっていた哲郎である。
他の客から、苦情が多くなると、店側は…哲郎にあることを告げた。
出入り禁止である。
「なぜ…どうして…私には、理解できなかった」
長谷川の目の前にいる哲郎の瞳に、涙が浮かんだ。
状況が理解できない哲郎は、次の日も店に行ったが、入れてくれなかった。
茜に電話をしても、着信拒否にされていた。
納得できない哲郎は、1ヶ月近く、毎日店に行ったが、いれてはくれなかった。
時には、他の客から、しつこいと罵倒された。
「そこまでして…どうしていかれたのですか?明らかに、店側はあなたを利用していた。それなのに、どうしてです」
長谷川の質問に、哲郎は少し目を見開き、驚いた顔を見せた。
その顔は、なぜそんなことをいうのかと、長谷川に告げていた。
その表情に、長谷川はおかしなものを感じた。
哲郎はただ…利用されていただけでない。
そこに、理由があるのだ。
長谷川は内ポケットから、二枚のカードを取り出した。
そのカードは、単純に…男と女。
長谷川は、カードを机に置くと、
「あなたが、そこまで拘った理由は…これですか?」
長谷川は女のカードに手を添えると、哲郎に向けて前に出した。
哲郎は、困ったような顔をした。
どこかはにかんで…。
その表情に、長谷川はカードから手を離した。
そして、哲郎を見つめ、
「真実を述べて下さい。それは、あなたの為にもなります」
「私の為ですか…」
哲郎は大きく、息を吐くと、
「私は別に良いんですが…彼女の為になるか…」
「彼女?」
長谷川は眉を潜めた。
「はい」
哲郎は、長谷川の顔を見ていない。
「それは…遠藤さんのことですか?」
「はい」
哲郎は頷いた。そして、カードを見つめ、
「本当は…本人から、話すことを禁止されていたんですよ。一応、私は店のお客ですし」
長谷川は、哲郎の話はあり得ないと思った。
周囲から、茜と哲郎の関係は聞いていた。
店側も、常連も…口を揃えてこう言った。
哲郎は、茜のストーカーだと。
そして、犯行前…茜は大毅とつき合っていたのだから。
「みんな…信じないでしょうね」
哲郎は笑うと、おもむろに自分の手を見て、
「だけど…私と茜は、男女の関係だったんですよ」
ゆっくりと握りしめた。
その様子に、長谷川は目を細めた。
誰もが知らなかった…二人の関係。
そこに、今回の悲劇が待っていたのだ。
「私は…茜と付き合っていたんですよ」
突然、哲郎は嗚咽した。
「ううう…それなのに…」
長谷川は、哲郎の様子を観察して、それが妄想でないとを悟った。
少し錯乱したのか…両手を虚空に這わす動きは、明らかに、あの行為を思い出していた。
長谷川は少し息を吐くと、椅子に座り直した。
そして、改めてきいた。
「あなた方、お二人がそういう関係だとして…。果たして、それだけで付き合ってるとは言えますか?」
長谷川の質問は、哲郎の心を抉った。
虚空をさ迷っていた手が、机を叩き、哲郎は立ち上がった。
「い、一度でも!そ、そういう関係になったら…そ、そうでしょうが!」
唾を飛ばして、むきになる哲郎を見つめ、
長谷川は心の中で、ため息をついた。
(真剣な相手には…そうだろうが…)
今までの会話で、長谷川は茜に対して、抱いていたイメージを変えた。
(したたかだな…)
そう…したたかな女。
(そして…)
ある意味純粋過ぎる男。
長谷川は哲郎を見つめた後、男のカードに指を添えた。
もう1つ確認しなければならないことがあったからだ。
「滝村大毅…」
長谷川は男のカードを前に出すと、 哲郎の目を見た。
「彼は、もともと…あなたの友人だった。それで、よろしいでしょうか?」
「はい」
長谷川の質問に一呼吸おいて、哲郎は答えた。
その口調には明らかに、怒気がこもっていた。
殺してもなお残る…怒り。
長谷川が、確認事項を続けようとするより速く、哲郎は言葉を続けた。
「友人といいますか…ただの飲み友達でして…。茜が働く店から、少し離れたところの居酒屋で出会いました。ほら…私は、茜の店に入れて貰えなかったから」
と、
そこまで言って、哲郎はまた机を叩いた。
「あの店の店長ですよ!あのばばあが、私と茜の仲を引き裂く為に、私を出入り禁止にしたんですよ!そうだ!あのばばあにも、何か罰を与えないと!」
錯乱状態になり、突然震え出す哲郎は、精神が安定していないようにも見えた。
薬物反応はなかった。
だからこそ、長谷川が呼ばれたのだろう。
長谷川はじっと、哲郎を見つめ、事務的に言葉を放った。
但し、少し声を大きくして。
「別の店で知り合った滝村さんに、あなたはその店を紹介した。いや、行ってくれるように頼んだ。お金まで渡してますね」
最初の取り調べで、哲郎はそう答えていた。
少しポカンとすると、哲郎のテンションはいきなり下がった。
「はい…」
か細い声。
声自体が、少し震えていた。
「そうです…」
長谷川は、認める声の中に、後悔の念をとらえていた。
なぜならば、哲郎が大毅を店に行かさなければ、2人は、付き合うことはなかったのだから。
「どうして、彼を行かしたのですか?」
その理由は、報告書に書かれていたが、改めて確認の意味も込めて、長谷川はきいた。
「そ、それは…」
哲郎は、泣きそうな顔になっていた。
(ガキだ…)
真剣な表情をつくりながら、心の中で、長谷川はため息をついていた。
しかし、そのガキが、2人を殺害したのだ。
長谷川は心の中も、引き締めた。
そんなことを考えてる内に、哲郎は話し出した。
「滝村君は真面目そうで…私の話をよく聞いてくれたんですよ。最後まで…」
少し嬉しそうに、哲郎は口元を緩め、
「だから…信用できるかなと」
(信用?)
長谷川は表情を変えずに、心の中で首を傾げた。
(そんな程度で)
長谷川は、哲郎の置かれている立場を知った。
孤独なのだ。
孤独だから、彼は単なる接客という笑顔を見せた茜に、魅せられた。
「彼が、私の代わりに、酔っぱらいから、茜を守るはずだったのにいい!」
また、哲郎は声をあらげた。
最初の内は、茜の店に行った次の日、居酒屋で報告をしていた大毅は、段々と邪魔くさくなってきた。
それに、彼はそれなりに、見映えがよかった。
だから、哲郎のように、最後まで店にいても、結果は違った。
居酒屋に来なくなった大毅が気になり…いや、茜の様子が気になり、哲郎は店へと向かった。
いつも最後までいた哲郎は、従業員が帰る裏口を知っていた。
その近くで隠れて、様子を伺っていた哲郎は、目を疑った。
裏口のドアを開けて、出てきたのは、
茜と大毅。
2人は、手を繋いでいた。
哲郎は目を疑いながらも、2人の後をつけた。
数分後、2人が向かった場所は、駅ではなかった。
駅を通りすぎ、裏手にある…ホテルだった。
ラブホテルに仲良く入っても、しばらくは、今見た事実を、哲郎は認めたくなかった。
幻かもしれない。
見間違いかもしれない。
だから、哲郎は待つことにした。
建物の影に隠れ、幻でないなら、2人が出てくるまで。
11時半から、朝方まで、哲郎は待った。
その時間は、哲郎に殺意が芽生えさせるのには、十分だった。
2人が仲良くホテルから出てきた時、哲郎は鞄からナイフを取り出した。
そして、後ろからまず…大毅を刺し、驚き逃げる茜に襲いかかり、馬乗りになると、メッタ刺しにした。
始発に乗る為に、少し早くホテルを出た為、人通りはあまりなかったことが、助けを求める茜に誰も気づくことはなかった。
2人を殺害した後、血塗れで駅の周辺をさ迷う哲郎を見つけたサラリーマンが、警察に通報した。
捕まった哲郎が、なぜナイフを持っていたのかその理由について、口論になった。
最初から、殺すつもりで、茜の店に行った。
だから、計画性があったと、警察は主張した。
しかし、哲郎が、ナイフについて語ったことが、弁護側の理由になった。
哲郎は、ナイフを持たないと、不安なのだと。
誰かに、傷付けられそうだからと。
彼は精神的に、病んでいたのだと。
長谷川は、そう思わなかった。
やはり、ただのガキだ。
確かに、ナイフを持ち歩くことは病んでいるかもしれない。
そんなただのガキも、滅多に人を刺さない。
それも、後ろから。
彼は、身を守ることに使っていない。自分から刺しに行ったのだ。
「茜は、私のものだった!それを、あいつが!汚した!茜も、汚れた!」
長谷川は、興奮する哲郎よりも、
テーブルの上にある二枚のカードを凝視した。
店の店長は、2人は付き合っていると言ったが、果たして…そうだろうか。
「茜は、私の彼女なんだ!」
絶叫する哲郎の言葉を冷静に、長谷川は紐解いてみた。
茜を彼女と思う理由は、彼女と関係を持ったから。
彼女は、哲郎と関係を持ったが、最終的に彼を捨てた。
そして、彼女は、新たな哲郎の代わりになる男と、関係を持った。
その答えは、簡単だった。
彼女は体を許すことで、その見返りを求めたのだ。
誰もが、聖女ではない。
哲郎は関係を持つことで、茜を彼女と思い、さらに尽くすようになった。
しかし、度が過ぎたのだ。
それに、店や周りの評判もよくない。
だから、切り捨てた。
そして、大毅を選んだのだ。
(ふぅ…)
長谷川は心の中で、息を吐いた。
まだ興奮している哲郎を見つめた。
その瞳の奥には、憐れみがあった。
しかし、人を2人も殺した男に、憐れむ場合ではない。
長谷川は、立ち上がった。
すると、後ろのドアが開き、2人の刑事が部屋に入り、興奮している哲郎を取り押さえた。
二枚のカードを手に取ると、長谷川は哲郎に頭を下げ、部屋を出た。
「先生、どうでしたか?」
廊下に残っていた刑事が、長谷川にきいた。
「少し興奮していますが、彼は正常でしょう。少なくとも、嫉妬している。そして、2人を刺した。男性の被害者は一度…女の被害者には、何度も。彼は、2人の違いを認識していた」
長谷川はそれだけ報告すると、刑事に頭を下げた。
「詳しくは、報告書にまとめて、提出しますので」
長谷川は刑事から離れ、灰色の廊下を闊歩した。
背筋を伸ばしながら、前を向いて。
(薬物は、使っていない。精神的に幼稚だが、おかしい訳ではない)
単なる嫉妬だ。
もし、恋愛が麻薬だとしたら、誰もが狂うだろう。
しかし、それは自己の中で、治さなければならない。
自分の心で。
男は女を抱いて、自分のものになったと完結した。
しかし、女はそれから始まり…吟味して、彼との関係を終わらした。
哲郎は、茜を彼女として、新たな関係が始まると思っていた。
茜は、よりよい方の男を選択しただけだ。
哲郎の選択は、終わっていた。
彼は、茜を諦めることができなかった。
長谷川は、哲郎を憐れと思った自分を恥じた。
彼は、2人を殺したのだ。
それを許すことはできない。
「だから、言ったでしょ。下らないとね」
「!?」
長谷川は足を止めた。
「君の方法…君のいる場所じゃ…真実を選べないよ」
(幾多!?)
長谷川は周りを見回したが、幾多の姿はなかった。
しばらく、周囲の様子を伺っていた長谷川は、幾多の声が、自分の記憶の底から溢れていることに気づかなかった。
「男女の揉め事なんて、普通過ぎてつまらないよ」
幾多は、せせら笑っていた。
(だけど…)
長谷川は、歩き出した。
(ここが、今は居場所だ)
長谷川は口許に浮かべた笑みで、幾多の笑いと戸惑いをかき消した。
今いる場所。進むべき道は、長谷川が自分で選んだ道だからだ。
終わり。