罪と恥
「ふう〜」
長谷川は自宅に戻ると、事務所としている書斎の金庫に、カードをしまった。
(そう言えば…あの頃からか)
リビングに戻り、ソファーに腰を下ろした瞬間、長谷川は脱力し、目を閉じた。
すべてを休みたい気分だった。
体は力を失っていきながらも、頭は何故か冴えてきた。
そして、長谷川は思い出した。
もう何十年も昔のことを。
「ふう〜」
長谷川は、流れ落ちる汗を手の甲で拭った。最初は我慢していたが、目に入り出した為に無視できなくなったのだ。
「まったく!」
苛つき意味なく毒づく長谷川を見て、笑う者がいた。
「こんな暑い日は、汗をかくものだ。こんなことも覚悟できないならば、外になどでるべきではないな」
少しふくよかな顔に笑顔をつくり、聖書を片手に立つ男を、長谷川は軽く睨み付けた。
「したくなくても、無理にやらなければならないときがあるのさ」
長谷川の言い訳を、男はせせら笑った。
「このことを、君は選択したのだろ?」
「そうだけどさ」
「まあ〜たまに労働に従事することも大切なことさ。じゃあ〜またな」
男は一人ではなかった。車椅子を引いており、そこに座る少女は長谷川に会釈した。
長谷川はしばし、二人を見送ってしまった。
「チッ」
それから思い出したように軽く舌打ちすると、長谷川は下に置いていた荷物の山に目を落とし、ため息をついた。
「ごめん。兄貴!」
男達とすれ違うように、妹の知佳子がかけ寄って来た。
「うちの施設。男手が足りなくてさ」
妹の知佳子は、時間がある時、老人ホームのボランティアをしていたのだ。
「後で、ジュースくらい奢れよ」
再び荷物を持つ覚悟を決めた長谷川に、知佳子がきいた。
「今の人達は知り合い?」
「うん?」
長谷川は再び、遠ざかっていく男の背中を見つめ、
「女性は知らないが…男は知り合いさ。学校一…いや、日本一の天才と言われている男だ。昔は常に刺がある感じだったけど…最近は、穏やかだな」
目を細めた。
「ふ〜ん。そんな天才と知り合いなんだ」
知佳子も、男の背中を見つめ、
「名前はなんていうの?それに一緒にいた女の人も綺麗な人だったね」
自然と微笑んだ。
「久沓義景だよ。最近、日曜礼拝にはまっているらしい」
長谷川は、荷物を持ち上げた。
「日曜礼拝って…。向こうにある教会か。いろんな人が参加してるみたいね。あたしも時間があったら、行ってみたいなあ〜」
知佳子は、ため息をついた。
「僕は、君に感謝をしているよ。キリスト教を知ることで、僕は神を知ることができた。そして、キリスト教が発明…いや、発見したというべきか。罪の定義を知ることができた。いや、それだけではない。僕は君に…あ」
愛といいかけて、久沓は照れたように咳払いをした。
そんな久沓の様子を、少女はただ優しく見守っていた。
「その時、連れていた彼女が殺されたのは…それからすぐのはずだ。そして…」
久沓は、犯人達を殺した。
「…」
長谷川は拭った汗を見つめた。
久沓が初めての殺人を犯した数ヶ月後。
とある事件が起こった。
広大な土地を持つ地主の実の息子が、殺人事件を起こしたのだ。
その息子は、変な性癖を持っており、その最中に…誤って殺してしまったのだ。
地主の息子は、コネと金を使い、病院を開業していた。
それにより、その殺人は…医療事故として処理された。
しかし、性癖は止まらない。
再び息子は、ある女を標的にした。検査と称して、診察室の一つに、女を監禁した。
そして、息子がプレイを開始しょうとした時、閉めたはずの扉が開いた。
「愛なき行動に、破滅を」
入ってきたのは、久沓だった。
「何者だ!」
息子が声を上げるのと、久沓が自家製の爆弾を投げるのは、同時だった。
「心配するな。音は抑えているよ」
「ぎゃああ」
息子が断末魔の叫びを上げ、監禁されていた女は部屋の角で震えていた。
「ど、どうした!」
爆発音ではなく、息子の叫び声に気付いた地主が、診察室の扉の前に慌てて飛び出してきた。
「やあ〜」
久沓は、ゆっくりと振り返り、地主である父親に微笑んだ。
「き、君は!」
父親は、久沓の顔を見て、絶句した。
「よく教会でお会いしましたね」
久沓は軽く会釈すると、少し顎を上げて、父親を見下ろした。
「厳粛なクリスチャンであるあなたが、どうして…こんな行為を見逃しているのですか?」
「な、何を!」
絶句する父親の目に、爆弾の破片が突き刺さり、血まみれになっている息子の姿が映る。
「な、何を言っている!」
父親は、久沓から距離を取りながら、息子に駆け寄った。
「気が狂っているか!だ、誰か警察を!だ、誰か!」
叫び続ける父親に、久沓は自らの携帯を示して見せた。
「心配しなくていい。もう警察は呼んである。それに、今から」
久沓は2人に微笑むと、うずくまる女の腕を取り、診察室からゆっくりとした足取りで歩き出した。
「すいませんが…火事が…」
久沓は笑いながら、携帯に話し出した。 消防車を呼ぶために。
「発生しました」
久沓の後ろ…診察室の中から火柱が廊下に飛び出してきた。
「フン」
数分後、巨大な火柱が、病院と地主の屋敷を燃え上がらしていた。
「知っていたさ。聖書に登場する悪魔は、キリストにパンを与える人間だ。その行為が、悪魔というならば…善意とは何だ?」
久沓は、助け出されてもまだうずくまり、震えている女をしばし見下ろした後、ゆっくりと背を向けた。
そして、歩き出した久沓の耳に、絞り出したような女の声が飛び込んできた。
「神よ…」
振り返った久沓の目に、膝まづきながら、自分に祈りを捧げる女の姿が飛び込んできた。
女の瞳には、火柱に照らされる自分の姿が映っていた。
「フン」
久沓は鼻を鳴らすと、再び女に背を向けて歩き出した。
キリスト教の罪は常に、己の中にある神の真理と葛藤する。真理がいつも、人間社会で通用することはない。
だからこそ、自らの心の神に問う。
しかし、日本人の心の中に神はいない。
八百万の神々は、人の中にはいない。
だからこそ、日本人は一人になった時に、内側に神がいないために決められないのだ。
さらに、他人の目を気にする文化が、時には罪を隠す。それが、血縁ならば尚更だ。
「それでも、俺は…パンを配ろう。例え悪魔と言われても」
久沓はポケットの中から、パン…爆弾を握り締めた。
久沓が助けた女もまた、日曜礼拝に通っている人であった。
久沓の彼女によく挨拶をしてくれていた。
助け出された女性の証言により、息子の罪は暴かれた。
しかし、火をつけた者に関しては…。
「神です」
女性は、それ以上を口にすることはなかった。
「罪と…恥か」
長谷川は、かつて久沓が語った言葉を思い出していた。
日本人は、罪よりも恥を重んじる人種だと。
だからこそ、隠匿が多い。
「所詮…島国さ。なのに、神が多い。己の中に神がいないのにな」
苦笑する久沓の言葉を思い出しながら、長谷川は目を瞑った。
もう会うことがないだろう友の顔を、思い出しながら…。