ファイル16 止めた手から
世の中は、醜いもので溢れている。
あるミュージシャンは癌にかかったが、あっさりと生き延びるのをやめた。
この世には、美しくないものが多い。だから、こんな世界に生きていても仕方がないと。
彼は治療を受けずに、そのまま自然に死んだ。
あるミュージシャンはこう言った。
この世界は美しくないもので溢れている。だからせめて、美しい音だけを奏でて、人々に聴かせたい。
しかし、この世には、美しくないもので溢れている。
それは何故か。
それが、自由だからだ。
汚い音に、罵詈雑言。
ネットでは匿名の中傷が永遠と書かれ、町では行き場のない人々が、ただ一瞬、一夜の笑いと快楽に費やしていく。
(この世は、汚れている)
だけど、目映い朝日や夕陽のように、すべてを照らす光があれば、すべてを誤魔化せるのかもしれない。
人々で溢れる地下鉄のプラットホーム。
その向こうから、暗い闇を照らしながら、近付いてくる光を見つめながら、前に立つ学生の背中を押そうとした腕を、横から誰かが掴んだ。
「やめてくれないか?もしかしたら、あの電車の中に美しき人が乗っているかもしれない。彼らが遅刻したら、可哀想だ」
「え」
掴まれた腕の持ち主が驚きながら、横を向くと、笑顔で微笑みかける幾多流がいた。
「殺そうとすることは止めないよ。だけど、他人に迷惑をかけなければね」
幾多はウィンクをすると、そのまま腕を掴みながら歩き出した。
「防犯カメラの位置は把握しているけど、長居は無用だ」
幾多は、白線から一番遠くに離れながら、急ぐでもなく少しの早足で歩いていく。
「す、すいません」
困ったような声を出したのは、腕を掴まれている少年だった。
彼は、背中を押そうとした学生と同じ高校の制服を着ていた。
掴んでいる手を振り払うこともできたであろう。
しかし、何故かそれをしたくは思わなかった。
まるで、自分を正しい道へ運んでくれているように思えた。引く力は、強くはない。自分の足が勝手に、前の男についていく。
「出るよ」
幾多は、改札機が見えると、手を離した。
そして1人、改札を通るとしばし歩いてから、振り返り、少年に向けて手を伸ばした。
そこからは、無意識だった。
少年は、自らの意思で改札機に定期を通し、差しのべられた腕に向かっていった。
幾多は、少年が目の前に来ると、腕を下ろした。
「場所を変えよう。君の願いを教えてくれないか」
幾多は少年に背を向けて、歩き出した。
「僕にできることなら、手助けをしょう。例え、それが…世間の常識から離れていたとしてもね」
数分後、幾多と少年はとあるカフェにいた。
薄い茶で統一された店内は、和むというよりは、自然のない都会にいることを感じさせた。
「…」
無言でコーヒーを啜る幾多を真正面の席から見つめながら、少年は店員が運んできたカップに手を伸ばすことができなかった。
幾多は、そんな少年を見つめることもなく、外の雑踏に時折目をやっていた。
「あ、あのお〜」
妙な沈黙に堪えられなくなり、少年は口を開いた。
すると、幾多が話し出した。
「君は先程、人を殺そうとした。なのに、君に殺気がなかった。怒りは感じたよ。だけど、その怒りは君自身から発せられるような感じではなかった」
幾多はカップを置くと、少年を見つめ、
「殺そうとした相手は…君の敵ではないね。だけど、君の親しい相手の敵だ。友人…それとも、恋人かい?」
にこっと微笑んだ。
「こ、恋人ではあ、あ、ありません!」
突然の詮索に戸惑う少年を、幾多は真っ直ぐに見つめた。
「話を訊かせてくれないか?君が、選択した理由さ」
「ぼ、僕は…」
何故か自然と理由が、口から出た。強制力があった訳ではない。
ただ…訊いて欲しかったのだ。
「成る程…」
幾多は微笑むと、2人の間にあった伝票を掴み立ち上がった。
「君は戻った方がいい。君がいるべき世界に」
「え」
思わず見上げた少年の肩を叩くと、幾多は歩き出した。
「そして、もう一度その手が掴むべきを考えたまえ。君なら、何でもできるよ。自分を犠牲にしてでも守りたいものと、健やかに暮らすがいいよ」
幾多は店を出ると、人波を掻き分け歩き出した。
数分後、幾多は迷うことなく、真横を通り過ぎて止まった車に乗り込んだ。
「新車かい?」
幾多は、運転席に座るサングラスをした女に微笑みかけた。
「はい。処理は済ましております」
女は頷くと、車を発車させた。
「今回は、単なるいじめですよね。幾多様が関わるような問題ではないのでは?」
「そうでもないさ。いじめられてる大半の子供は、心美しき者達さ。まあ〜例外もあるだろうけど」
幾多は窓の外を眺めながら、フッと笑うと、
「それに今回は、相手がね」
顔を前に向け、目を細めた。
「例のものは、用意できてるかい」
「はい」
「相変わらず、仕事が早い」
幾多は、後部座席にあるものにちらりと目をやった。
「そろそろだね。運転を代わろう」
「ご武運を」
車は静かに止まると、女は下車した。
そして、再び発車した車に頭を下げた。
「では、行くか」
幾多はハンドルを握り締めると、一気にスピードを上げた。
「免許がなくても、何とかなるものだな」
そして、町外れにあった選挙事務所に突っ込んだ。
恥ずかしげもなくでかでかと貼られた笑顔の写真目掛けて、アクセルを踏むと幾多はにやりと笑った。
「さてと…公約に誤植があるんだけど、その件で答えてくれる人はいるかい?いや、先生でもいいけど」
幾多は女がかけていたサングラスをかけると、車から下り、胸ポケットから拳銃を抜いた。
「ヒイイイ!」
支援者達と話していた代議員は突然、事務所に殴り込んできた幾多に戸惑いながらも、周りに目配せをし、後退した。
幾多を囲む数十人の警備員達。
その瞬間、車は爆発した。
幾多から別れた女は、歩きながら、隠し持っていた起爆スイッチを押した。
事務所の入り口は吹き飛び、爆風に乗ってチラシが町中に飛び散った。
「いいタイミングだ」
血塗れになり、転がる警備員や支援者達の中で、幾多は血を流しながらも立っていた。
一番奥に移動していた代議員は、軽傷ですんでいたが、目の前に起こった惨劇を見て震えていた。
「お、お前は!な、何を!」
「さあね」
幾多は歩き出した。
爆破のタイミングは、女に任せていた。
下手したら、死んでいたであろう。
しかし、幾多は思っていた。それで死ぬならば、自分はそこまでだと。
自分で爆破のタイミングを決めない。そのような行為が、今まで幾多を生き延びさせてきた。
幾多の持論はこうだ。
生まれた生物に、生きる権利はある。しかし、生き抜く権利はない。死ぬべきものは、死ぬべき時に死ぬ。
「この国に、屑は主に五種類いる。ヤクザに警察、そして、官僚に政治家。最後は…」
幾多はゆっくりと近付きながら、腰が抜けた代議員に近付いていく。
「そんなやつらから甘い蜜を吸う…一部の民衆だ」
幾多は代議員の足を払うと、倒れた代議員に向けて、引き金を引いた。
その瞬間、二度目の爆発が起こった。
車の爆破は二回起こるように、設定されてあった。
それは、爆破を聞き付け、直行してくるであろう警察に向けたものであった。
その爆破をわかっていた幾多は、その隙に現場を後にしていた。
予想外の三度目の爆破を聞きながら、幾多は数メートル向こうで頭を下げる女を軽く睨んだ。
「今の爆破は何?」
幾多の質問に、女は頭を下げながら答えた。
「あなたの支援者から言われました。こんな程度で、あなたを失っては困ると」
「フン」
幾多は鼻を鳴らすと、女のそばを通り過ぎた。
すると、目の前に…ワゴン車が止まっていた。
その中には、武装した人が数人いた。
幾多はワゴン車の横を通り過ぎた。
すると、今度は乗用車が、幾多の横に止まった。
「お願いします。乗って下さい」
「わかったよ」
幾多は、車に乗り込んだ。
「幾多様」
運転する女に、幾多は話し出した。
「あの代議員の本音は暴露され、あの少年の大切な彼女を虐めている…屑の娘は、そんな暇がなくなるだろうよ。悲劇のヒロインになるか…新しい虐めの対象になるかは知らないけど」
「しかし…」
「悲劇のヒロインになるようなら…処置をするよ。少年の為にね」
幾多は、服の中に隠している銃を確認した。
「幾多様」
「お前の言いたい意味はわかる。何故、屑の周りにいる人々を巻き込んだかだろ?」
幾多は、前を見た。
「この国の普通の人間は、選挙にいかない。だから、屑が政治家になり、屑を応援するゴミが得をする。だから、今回の件で知ってほしい。ゴミの存在をな」
ばら蒔いたチラシには、代議員の矛盾と悪行…よりも、彼を支援する人々の存在を強調していた。
「まだいくところがある」
幾多が、女に指示しょうとした瞬間、車は右に曲がった。
「おい」
違うと言おうとした幾多に、女はハンドルを握りながら答えた。
「幾多様。あなたはもう1人ではありません。代議員の支援者の中でも問題がある残りの者達は、あなたの支援者が何とかします」
「まったく」
幾多は座り直すと、深々とシートにもたれ、
「彼らには、絶対に人を傷付けさせるなよ。それをやるのは、すべて僕の役目だ。美しき人は、常に心を痛めている。そんな彼らに、さらなる負担を強いることはさせれない」
「はい」
幾多の言葉に、女は頷いた。
「今回のことで、普通の人々が選挙に行ってほしいね。一部のゴミに、世界を動かされたくないならね」
幾多はゆっくりと、瞼を閉じ、しばし休むことにした。
幾多から別れ、家に着いた少年は、襲撃事件を知り…唖然とした。
テレビから、一番最初に現場に着いたアナウンサーが、幾多がばら蒔いたチラシの内容を繰り返し、伝えていた。
もちろん…そのアナウンサーも、幾多の支援者の1人である。
「…」
少年は、幾多の顔を思いだし、唾を飲んだ。 不思議と恐怖は感じなかった。何故か、力が湧いてきた。
次の日、報道の仕方もあり、代議員の死よりも彼の悪行がピックアップされた為に、教室内は変な空気に包まれていた。
少年は、代議員の娘を無視して、教室の一番後ろで1人で座る少女に向かって歩き出した。
「中村くん」
少女は、少年を見て、笑顔になった。
(そうだ。俺はこの子を守りたい。ずっと、この手で…そばにいて)
少年は笑顔を返しながら、拳を握り締め、改めて誓った。
「今日はいい天気だね」
少年の言葉に、少女は頷いた。
「うん。そうだね」
「ずっと、こんな天気がいいよね」
「うん」
他愛もない会話を続きながら、2人は互いを確認し出した。
(昨日…背中を押さなくてよかった。俺は、選択を間違えかけた)
少年は、幾多の笑顔を思いだしながら、心の中で礼を述べた。
今日の天気のような…彼女の笑顔を見つめながら。
END