ファイル15 同じもので違うもの
秋から冬にかけて降る…通り雨を時雨という。
日本人は、風流を好む為か…季節ごとの雨に、名前をつけやがる。
五月雨とかさ…。
春夏秋冬。
移り変わる季節が、人々の心に変化を与え、飽きさせない。
そうだろうか。
季節なんて…なくてもいい。
季節があるから…変化があるから、思い出す。
ただ過ぎ去るだけなら、どんなに楽だろうか。
何度目かの…突然の時雨に濡らされて…俺はふと足を止めた。
この季節だったな。
人はあまりにも悲しいことは、忘れるらしい。
だけど、悔しさはどうなんだ。
後悔という悲しさは…。
激しい雨と乾いた音…薄暗い部屋と、確かだった鼓動の温もりとともに…俺は思い出す。
時雨の季節。
「お客さん…飲み過ぎですよ」
降り始めた雨から、逃げるようにして入ったバー。
薄暗い店内に、音数が少ないジャズが流れている。
テレビはついているが、音は流れていなかった。
(ああ…そっくりだ)
カウンターに頬をくっ付けて、目の前にあるグラスを見つめた。
透き通ってるくせに、ちゃんと味がある…ジンってやつに、俺は笑った。
顔を上げ、ロンググラスの中身を飲み干すと、俺はカウンターの向こうのマスターに、空のグラスを突き出した。
「お代わりを…」
にやっと愛想笑いを浮かべる俺に、マスターはため息をつき、
「大丈夫なんですか?」
腕を伸ばして、やっと届くカウンターの広さに、俺は思った。
(カウンターのように…壁があったのか?あんなに近かったのに)
俺は、マスターを見つめ、
「ああ…大丈夫」
マスターは、俺からグラスを受け取ると、
「ロックはやめて…トニックにしますか?」
「余計なものは、入れなくていい」
マスターの提案を、俺は断った。
余計なものは、いれなくていい。
余計なものは…。
強烈な痛みすら感じるジンの味を、舌が感じるたびに、俺は強烈に思い出す。
痛みとは裏腹に、瞳に涙が滲んでくる。
俺は、コースターの上に、グラスを置くと、カウンターの向こうにいるマスターに言った。
「かけてよ…。いつもの…」
マスターは頷き、カウンターの端に置いてあるレコードプレーヤーに、古びたレコードをのせ…針を落とした。
俺はそっと…目を閉じた。
閉じた反動で、少し涙が溢れ出た。
マスターは、プレーヤーのそばに、レコードジャケットを立て掛けた。
ジェリー・マリガン【ナイト・ライツ】
「この音だ…」
(同じ音を流す……違うもの)
俺は、ジャケットを見ながら、過去に沈んだ。
そう…もう過去だ。
しかし、その過去を現在に戻すニュースが流れていたが、俺は気付かなかった。
激しく俺は、唇を押しつけた。
俺の下にいる愛しい女に…。
女は高揚しながらも、優しく微笑み…俺のすべてを受けとめてくれていた。
そう受けとめてくれては…いた。
初めての女…。初めて、好きになった人。
出会いは、覚えていない。
俺の記憶は、あの頃いつもにいた…小さなアパートの一室しかない。
日当たりの悪い…薄暗い六畳の部屋に、彼女だけ。
そして、部屋の片隅にあるレコードプレーヤーと…いつもかかっている…同じアルバム。
ジェリー・マリガンのナイト・ライツの音だけだ。
それ以外は覚えていない…。
いや、覚えている。
最初の頃の夢中さから、どんなに抱き締めても一つになれない切なさを、たった1人の女の上で、感じ始めた頃…俺は、いつも思い出していた。
「これ…ください」
アルバイトしていた中古レコード屋に数日前から、1人の女が通っていた。
店長の性格もあり…レコードは、うちの店は、ジャンル別など整理されているわけでなく、何かほしいものがあっても、見つけることがなかなかできなかった。
店長いわく、レコードなんて買う奴がいなくなったから、どうでもいいと…。
店内の半分以上を占領しているレコードより、入り口近くに、丁寧に陳列されているCDが、メインだったからだ。さらに、配信なんて敵も外にいた。
そんな時代遅れになりかけた店に、女は何日も通い、一枚一枚レコードを物色していた。
数日後、やっと見つけたのか…笑顔で、レジにいた俺の前に持ってきたのが、ジェリー・マリガンのナイト・ライツだった。
「CDでもあるけど…レコードがいいの」
部屋で、抱き疲れて仰向けになっている俺の横で、膝を抱えながら、煙草に火をつけた彼女は、そう呟くように言った。
吐き出した煙を見つめながら、薄い布団の上で、彼女は言った。
「前に持ってたのは…もう擦り切れて、聴けなくなったから…」
俺は質問ついでに、もう一つに訊いた。
どうして…うちの店で探していたのかと。
他にレコード屋はあるし、別にレアなものでもないし…。
彼女は笑いながら、
「このアルバムを置いてった人が、あそこで買ったのよ。だから…」
彼女は苦笑した。
中古なんて、そこで買ったから…またあるなんてものじゃない。
俺が驚きながら、そう言うと……、
彼女はまた苦笑した。
「なければ…なくてよかったの…。あっても、なくても」
そう言うと、彼女は煙草を灰皿に置き、
隣で寝ている俺の唇に、倒れ込みながら、キスをした。
そして、俺を逆に抱いた。
「ねえ〜ちいちゃん。×××のベスト、中古で入った」
教室の片隅で、佇んでいると、同級生の歩美が話し掛けてきた。
俺はそっぽを向きながら、こたえた。
「そんな新しいやつが、うちみたいなカビ臭い店に、入荷するかよ」
俺は、馴れ馴れしい歩美が、苦手だった。
「そうなんだ…」
いきなり、シュンとなる歩美に、少し戸惑ったけど、俺は何も言わなかった。
歩美はため息をつき、
「あ〜あ。安く買えると思ったのに〜」
俺は、次の授業を告げるチャイムを聞きながら、
「世の中…そんなに甘くないってこと」
歩美に言うと、自分のいつもの席に戻っていく。
ふと…いつもと変わらない自分の机に目がいった。
いつもと変わらない…いつもと同じ…場所にある机。
彼女を思い出した。
いつも…同じ部屋にいる彼女。
だから、俺は言った。
薄暗い部屋で、蹲る彼女に外へ出ようと。
「どこか、買い物でも行こうよ」
俺の言葉に、彼女はターンテーブルの上で回るレコードを見つめながら、首を横に振った。
「……ほしいもので、買えるものは、手に入ったし……」
そう言うと、彼女は俺の方を向いて、にっと歯を見せ、思い切りの笑顔を作った後、少し俯き、こう言った。
「抱いてよ…」
いつものように…。
何日か過ぎ……家にあった買い溜めがなくなったという理由で、彼女が部屋を出ていった。
いつも薄暗い部屋の布団の上にいるだけの俺は、何気なく…本当に何気なく、部屋の電気をつけた。
俺は…息ができなくなった。
壁一面に貼られた写真。
それは、男の写真だった。
男がいただろうことは…何となくわかっていた。
敢えて、きかなかった。
いや、きけなかったのだろう。
俺は明かりを消そうと、天井からぶら下がる紐に、手を伸ばした。
だけど、震えた手がなかなか…紐を掴めない。
あたふたしていると、後ろから彼女の声がした。
「別に…隠していたわけじゃないから…」
彼女は、買い物袋を置くと、中身を出しながら、
「やきもち焼きだったのよ。もし…この部屋に、男が来ても、変な気を起こさないように」
少し苛立つように言った。
確かに、写真の数が半端ではない。
この部屋で、どうこうしょうとは、思わないだろう。
(…だけど、俺は…この部屋で何度も…)
唖然としてる俺を見て、彼女はこう言った。
「あたしのこと嫌いになった?いつまでも、未練がましく、死んだ男の写真を、ずっと貼ってる女なんか…」
「死んだ?」
「言ってなかったけ?」
驚き、思わず彼女の顔を見た俺を、意外そうに見る彼女がいた。
彼女は頭をかくと、布団の上に座り、
「半年前よ」
胡坐をかき、頬杖をした。そして、ジェリー・マリガンのレコードを見つめながら、
「病気だったの。だから、死ぬ数ヶ月前は、この部屋にずっといてね。働けないから…ここで、あたしの料理をつくり、あたしの帰りを待ち…あたしの為に、洗濯しを……」
彼女の瞳に、涙が溢れだす。
「そして…あたしの名前を呼びながら、死んでいったわ。奥さんがいたのにね」
彼女は笑った。
「別居中か何かでね。だから、あたしが最後を看取ったし、あたしが病院代も、葬式代も出したけど…。あの人は、結局……お骨になってから、奥さんとこに戻った…」
彼女は笑い続け、
「向こうにとっちゃ…あたしなんて、ただの泥棒猫。あたしに残ったのは、写真と…レコード一枚。それも、擦り切れて…」
彼女は、ターンテーブルの上から、レコードを手に取り、
「今あるのは、別のもの…」
俺も、レコードを見た。
「同じ音を奏でる…別のもの」
自嘲気味に笑う彼女に、俺はかける言葉を、失った。
目の前が、真っ黒になり……彼女を見ていたが、見れていなかった。
意識はあり、考えているんだろが…頭が働いていない。
「千明ちゃん…」
女のような俺の名前を呼んだ彼女の声に、俺は現実に戻った。
「大好きだよ」
もう彼女の目に、涙はなく…まっすぐに、俺を見ていた。
なのに、俺は何も言えない。
「ずっと……この部屋から、動けなくなっていたあたしを…外に出れるようにしてくれたのは…千明ちゃんだよ」
彼女は立ち上がり、俺の首に両手を回すと引き寄せ、耳元で囁いた。
「今は…誰よりも、大好きだよ。これだけは、ほんと…だよ」
彼女は、近付けた顔を離し、
「でも、まだ…あの人を、嫌いには、なってないの」
彼女は、俺から離れ、
「まだ…忘れてもいないの……」
彼女は俯いた後、すぐに顔を上げ、微笑んだ。
「ずるいよね」
彼女の何とも言えない…悲しい表情に、俺は叫んだ。
「お、俺も!ご飯つくるし、俺も!お前の為に!生きるから…」
「だめだよ…」
彼女は笑い、
「それじゃ…千明ちゃんじゃなくなるよ」
首を横に振った。
その言葉に、俺は彼女に近寄り、思い切り抱き締めた。
彼女は目を瞑り、俺の背中を抱き、
「………あたし、明日からアルバイトするね。知り合いの居酒屋が、人手が足りないって…」
その日。
俺は初めて…彼女を抱けなかった。
どんなに抱き締めても、俺はたたなかったのだ。
それから、数日。
ほんの数日。
学校やバイトが忙しくって、彼女に会えなかった。
抱けなかったことも気になって、俺はその日、堪らずにバイトを早出して、彼女の家に向かった。
そして、俺は信じられない光景を目にしたのだ。
彼女の家から、一人の男が出てくるのと、遭遇してしまったのだ。
男は、彼女と楽しそうに話をしながら出てきて、俺を見て、こう言った。
「弟さん?」
「え、ええ…」
少し引きつりながらも、笑顔でこたえた彼女の言葉より、俺は信じられないものを見て、唖然とした。
男を見送った後、俺と彼女は部屋に入った。
そして、彼女は口を開いた。
「……わかったでしょ?あたしと千明ちゃんは、恋人には、見えないのよ。あたしと千明ちゃんは…釣り合っていないのよ。千明ちゃんは…もっと、あたしなんかより、若い女の子と…」
「あれ……誰だよ。今の男」
「………バイト先のお客さんで」
「どうしてだよ…」
「仲良く……なったの」
彼女は、僕から顔を背けた。
「そ、そっくりじゃないか!死んだ彼氏と!」
電気がついていた部屋には、昔の彼氏の写真が一枚も、なくなっていた。
「外したんだ………」
俺といるときは、外さなかったのに。
「千明ちゃん…」
「やったのか」
俺は怒りで、頭がおかしくなった。彼女を睨み、
「やったのか!あいつと!死んだ彼氏に似てるって、だけで!」
自分に激しく詰め寄る俺を見て…彼女は、悲しげに俺を見つめた後、俯き……そして、言った。
「やったわ」
彼女は唇を噛み締めた後、顔を上げ、真剣な表情で俺を見た。
「ど、どうして……」
俺の声が震えた。
「簡単なことよ」
彼女は笑った。
「千明ちゃんより、好きだから…抱かれただけ。淋しかったから…千明ちゃんに抱かれただけ……」
やがて、笑いは苦笑に変わり、
「それだけよ。あたしが、千明ちゃんといた…本当の理由は」
あれから……俺はどうしたのか……覚えていない。
いや、覚えている。
彼女を押し倒し…無理矢理抱いたのだ。
彼女はずっと、無表情だったが…俺が一度果てた後、じっと俺を見つめた。
そしてすぐに、今度は彼女から迫り…今までで一番激しく、俺を抱いてくれた。
俺は、そんな彼女を初めて知った。
その後…彼女と、会ってはいない。
その日…いきなり、降りだした激しい雨にうたれながら、俺はとぼとぼと家に帰った。
途中、歩美と会い…びしょ濡れの俺に驚き、傘に入れてくれた。
小さな傘であり、風も強かったこともあり、部活帰りの歩美のブラウスが、雨で透けているのに、気付いた。
(男って…ふられた直後でも…目がいくんだな…)
自分に笑ってしまった。
レコードが終わった。
マスターは、違うCDをかけた。
店内に、R&Bが流れると、俺は店を出た。
「うん?」
すると、まだ雨が降っていた。
傘を持っていなかったが、普通に歩きだそうとする俺の前に、誰かが立った。
「はい」
傘を差し出す歩美に、俺は驚きの顔を向けた。
「また…この店だと思って…」
歩美から傘を受け取り、歩きだす俺。
「そんなに好きなら、家で聴けばいいのに。CD持ってるでしょ」
そんな様子を見て呆れた歩美の質問に、俺は笑い、
「音が違う…レコードと。それにあの音は、薄暗いところが…似合っている」
「ふ〜ん」
それ以上、歩美は訊かない。
俺は、普通の幸せを…手に入れた。
普通に好きな女と結婚することを選択したのだ。
この季節……。
だけど、雨が降る日は…俺の心が、疼いた。
彼女が住んでいたアパート。数年後…大学生になってから、偶然前を通った。
忘れようとしていたが、近くに来ると足が覚えていた。
しかし、アパートはうち壊されており、飲食ビルが建っていた。
その一階のバーで、偶然流れていたジェリー・マリガン。
俺は、あの部屋に貼ってあった…幸せそうな写真を思い出した。
そして、悔しさでいっぱいになった。
(俺はなぜ…彼女と一緒にいれなかったんだ)
雨は、あの時の彼女の涙。
未だに、心濡らす涙。
忘れられない雨ともに流れ落ちても、まだ思い出す。
「先生」
「はい」
長谷川は、鑑識から渡された報告書を目に通しながら、現場を検証していた。
静かな住宅街のアパートの一室で起こった強盗殺人事件は、その猟奇的な内容の為、長谷川が呼ばれたのだ。
「どうですか?怨みなどの」
「その線は、薄いですね…。うん?」
長谷川はほとんど家具もなく、生活感のない部屋の中で、あるものを発見した。
それは、二枚のレコード。テーブルの上に置かれていた。
「あっ!それですか。殺された被害者が襲われた時、ずっと握り締めて離さなかったものですよ。息を引き取っても。ぼろぼろの方は棚の上にあったのですけど。価値があるものかと調べましたが、普通のレコードでしたよ」
「ナイト・ライツ」
長谷川は、ビニールに包まれたレコードを手に取った。
(大切な思い出だったのだろうか?)
しばし見つめた後、慎重にテーブルの上に置いた。
「そういえば、知ってる?つい数時間前、少し向こうで、殺人事件があったそうよ。物騒だよね。まあ~今はあなたがいるから平気だけど」
歩美の言葉に、俺は彼女の手を握った。
「気をつけろよ」
「ありがとう」
歩美は、俺に笑顔を向けた。
(こいつで、よかったんだよ)
たとえ何度思い出しても、過去は過去だ。
過去の思い出を選択したところで、未来につながらない。
「今度、新しいCDを買いにいこうか?音がよくなったらしいんだ…。あの頃より」
俺は歩美に微笑んだ。
もうすぐ、雨が止みそうだ。
End。