ファイル12 麻薬
あなたに会うためのお薬
「雄太!雄太!」
錯乱状態にある彼女の診断を終えた。
彼女に明確な殺意はあった。
(しかし...)
長谷川は伊達眼鏡を外すと、目を閉じた。
そして、彼女の親友が語った話を思い出していた。
あたしが翠から、彼氏を紹介されたのは、いつものカフェだった。
普段なら、二人でランチの筈なのに、翠の横には、男がいた。
大して男前ではなかったけど…。
「友達の有希」
と翠が紹介すると、すぐに席を立ち、頭を下げる態度と、その時の優しげな瞳がとても印象に残った。
好印象ってやつだ。
体型はがしっりしていたけど、穏やかで物静かな性格は、彼氏彼女という二人の空間に、お邪魔なあたしがいても、あまり気を使うことがなかった。
今まで男運がなかった翠にやっと、幸せが訪れったように感じて、あたしは二人に微笑んだ。
彼の名は松木雄太。
誰よりも落ち着き、誰よりも優しい目をしていた。
穏やかな口調。
何かあると、
「ありがとう」
とすぐに、頭を下げた。
ほんの何気ないことで。
例えば、コップを取ってあげるだけで。
ありがとう、ありがとうと感謝の言葉を述べる。
菩薩のような人と、周りで言われていた。
そんな雄太のそばにいる翠はとても幸せそうで、彼女が笑顔でいることが、多くなった。
そんな翠が、彼氏について衝撃的なこと告げたのは、いつものランチ。
二人だけのときだった。
翠が昨日のデートを嬉しそう話した後、少し会話が途切れたので、
「松木さんって、お仕事何されてるの?」
あたしが何気なく質問した事が、のちの事件に繋がるのである。
「彼…無職なの」
「無職!…そ、そうなんだ..」
あたしは、聞いてしまったことを少し後悔した。
そんなあたし様子に気付き、
「仕事は探してるよ。今日も知り合いの運送会社に面接に行ってるし」
翠は、テーブルに置いてあるミルクティーに手を伸ばし、ストローで啜った。
「そうなんだ…よ、よかったね!」
あたしが安心して、胸を撫で下ろした時、翠はグラスを置くと、テーブルに肘を付き、あたしから視線を外すと、呟くように言った。
「仕方ないよ…。彼、出所したばかりなんだから」
「え?」
目を丸くするあたしを、頬杖をつき、上目遣いで見ながら、翠が雄太について、語ったことはあたしの想像をこえていた。
「ちょっと!聞いた!有希」
ワンルームマンションに帰宅したあたしの携帯に、陽子から着信があった。
慌てて出ると、いきなり興奮した陽子の声が、耳に飛び込んで来た。
「翠の彼氏って、ジャンキーなんだって!それも何度も捕まっている常習犯!」
陽子は、翠の高校時代からの友達で、あたしより付き合いは長い。
あたしは、服を着替えながら、
「でも、今は出所して、薬もやめてるって」
携帯で話ながらだから、なかなか着替えられない。
「それに、何度か会ったことがあるけど、とても優しくって、紳士的だったけど」
あたしの言葉に、はあ~と陽子は呆れた。
「あんたは、見かけに騙されってるだけ!昨日ラブホ行った話聞いた?」
「ううん…聞いてない」
やっと着替え終わったあたしが、ベッドに腰掛けると、陽子の怒りに震えた声が聞こえてきた。
「あの子ら!ホテルでハシシ吸ったらしいのよ?」
「え?」
聞き慣れない言葉に、あたしは素頓狂な声を上げた。
ハシシとは、大麻の根だ。
それをアルミに包み、火をつけ、パイプで吸うのだ。
「その男!薬やめてないからね!」
陽子の怒声も、ショックであたしの耳には入らなかった。
友達が麻薬をやっているという事実に。
「まったく!その男はどうなってもいいけど!あの子どうすんのよ!」
陽子の怒りはおさまらない。
「明日!あたしも行くからね!」
と言うと、ブチッと電話が切られた。
少し耳鳴りする耳を気にしながら、あたしはベッドに倒れ込んだ。
今はショックで、何も考えられなかった。
「薬か…」
自分には、遠い世界だと思っていたのに。
疲れているのに、あたしはしばらく眠れなかった。
次の日。
あたし達のランチに乱入した陽子は、こっぴどく翠を叱った。
「大丈夫だって!心配しすぎ」
「そんな男!やめろ!彼女に、薬やらすなんて最低だよ!」
どんなに陽子が言っても、別れる気はないらしい。
「だって…他の誰よりも優しいよお」
うっとりと恋する乙女の目になる翠に、埒があかないと思った陽子は、翠の携帯を取り上げると、強引に雄大に電話をかけた。
仕事中だとしても関係ない。数秒後、通じた雄大に、陽子は、話しだした。
「もしもし~突然すいません。あたし!翠の友達ですけど…」
陽子は単刀直入に言った。
「あんたらのことに口出ししたくないけど…あたしの友達に薬をやらすな!絶対やらすな!今度吸わしたら、ぶっ殺すからな!」
警察に何度も捕まってる相手に、よくそんなタンカがきれるなあ~と、あたしが感心していると、陽子は携帯を切った。
「はい!」
携帯を突き返す陽子に、翠は膨れっ面で言った。
「いい人なのに…。もうちゃんとやめて、働いてるのにさ。ハシシだって…あたしが…吸ってみたいって…」
その言葉に、陽子はキレた。
「あんたね!」
テーブルを叩き、立ち上がった陽子が、何度注意しても、翠には通じていない。
それが、恋してるってことだし…。
あたしもあの雄大が薬をやってるなんて、信じられなかった。
陽子の真剣な忠告が効いたのか、翠自身は一切薬をやらないことを約束させた。
それから、数週間、幸せな生活は続いた。
雄太の麻薬のことは、あたし達3人しか知らないから、彼の性格の良さは周りで評判になっていった。
だけど、その落ち着きと穏やかさと優しさは、本当の雄太のものではなかったのだ。
雄太は今度捕まったら、そういう薬をやめさせられる為に、強制的に病院に収容されることになっていた。そして、入るとなかなか出れないことが確定していた。
だからこそ..雄太はやる量を制限していた。
そのことは、体には少し良かったが、翠との関係を壊すことになった。
薬が切れると、落ち着かなくなり、雄太は本来の性格を浮き彫りにした。
ショップ店員である翠は、もともと人付き合いは多い方だった。
だから、男友達から電話はよくあった。単なる電話であるけど....雄太とはその度に口論になった。
時には暴力を振るうこともあった。
殴られても、普段の雄太を知っている翠は、許していた。
今の彼が、おかしいのだ。
薬がキレた雄太こそが、おかしいのだと..。
そう思った翠は、雄太に薬を飲むことを、積極的に進めた。
飲むと、誰よりも優しくなり、穏やかになる。
(ああ…これこそが、あなたの本当の姿なのよ)
翠は、穏やかな雄太に抱かれながら、何度も心の中でそう思った。
「ごめんな..」
「いいの」
それだけで、翠は幸せだった。
しかし、そんなことは、長くは続かない。
人の体は慣れるのだ。
いつもの量では、効かなくなってきた。
翠のすすめもあり、雄太の薬の摂取量は多くなって来た。
体に悪いのはわかっている。
だけど、今の雄太のそばにいる為には、薬は必要だった。
イライラし暴れる雄太もまた…今の自分ではないと思っていた。
だから、薬の量は増え、それで気持ちは落ち着いても、体は蝕まれていった。
そして、ある日…もう戻れなくなっていた。
あれほど澄んでいた目に、影がでてきたのだ。
精神は、落ち着いても、体は悲鳴を上げていたのだ。
自分の顔を見た雄太が、ひくぐらいのひどい顔になっていた。
だから、彼は減らすことにした。
人は死の影がちらつくと、やっと気付くものなのだ。
仕事を段々と休みがちになった翠が、あたしに電話をかけて来た。
「どうしたらいいの!」
悲痛な叫びに、あたしは携帯に叫んだ。
「どうしたの!翠!」
翠は声を震わしながら、答えた。
「薬をやっている彼が、本当の彼なんだけど…。もう薬が、効かなくなってきたし…薬を買うお金もなくなくなったし…」
「翠!?」
「あたし…どうしたらいいのか…わからない!!!」
「翠…やっぱり、病院に入れる方がいいよ」
「だめ!」
翠は声を荒げた。
「そんなことしたら!彼が、ジャンキーだとわかってしまうわ!彼の尊厳に関わることなの!あたしは、彼の尊厳を守りたいの!」
翠の矛盾した叫びに、あたしは顔をしかめ、
「尊厳って何?彼の尊厳って何よ!薬やってるんでしょ!」
思わず、あたしも声を荒げた。
「あたしは!」
そう言ってから、翠は泣き出した。
「嫌だよ…」
しくしく泣き出す翠に、あたしは何も言えなくなった。
「あたしの…雄太がいなくなちゃうよ」
それが、電話で聞いた最後の声になった。
「翠!あんた!」
あたしのヘの電話を切った後、陽子からかかってきたけど、翠はでなかった。
そして、数分後、仕事を終えた雄太が帰宅した。
翠のマンションに転がり込んでいた雄太は、晩ご飯をせがんだ。
しかし、翠が差し出したのは、薬だった。
「さあ…あたしの雄太になって」
微笑む翠を、雄太は無視した。
「なんか今はいいや!腹減ってるしさ」
雄太は翠に背を向けて、テレビのリモコンを持つと、電源を入れた。
「それにさ!最近、やらなくても、落ち着けるようになってきたんだ」
その言葉を聞いたとき、翠は手に持っていた薬を落とした。
わなわなと震えだし、そして…翠の瞳から涙が流れた。
「今のあなたが、いなくなるなんて嫌…」
「え?」
泣きじゃくる翠に気付いたけど、雄太は無視して、しばらくテレビを見ていた。
数分後、
「まだかよ」
聞いても返事がないから、振り返ろうとした瞬間、後ろから翠は、雄太に抱きついた。
「み、翠…」
「今のあんたは…違うわ…」
振り返った雄太が、目にしたものは、知っている翠の顔ではなかった。
目を血走らせ、恐ろしい表情をした翠は、雄太を睨みながら、
「あたしの雄太を返して!!」
手にしていた包丁を、背中から一気に突き刺した。
胸騒ぎがしたあたしは家を出て、翠のマンションを目指した。
一駅しか離れていない翠の家についたあたしは、その惨劇を目にした。
チャイムを鳴らしても返事がない為、あたしは鍵がかかっていなかったドアを開き、中に入った。
そして、包丁を握り締めた翠を見つけた。
「み、翠」
血塗れになった翠は、あたしに気付き、微笑んだ。
「有希…。あたしの雄太が、いなくなっちゃたの…あたしの雄太が…」
あたしは、血溜まりに倒れている雄太に気付いた。
「あ、あんたが…雄太さんを」
震えが止まらないあたしの視線の先を見て、翠は言った。
「ああ…」
翠は、床に倒れている雄太を蹴り、
「こいつじゃないわ...こいつは雄太じゃない」
またあたしを見て、
「だって、雄太は優しくて、とっても穏やかで…こいつじゃないの」
首を横に振った。
「ねえ…有希?」
翠はきいた。
「あたしの雄太には、どうやったら、会えるのかしら」
そこから、あたしは覚えていない。
その後、マンションに来た陽子によって、警察に通報され、翠は捕まった。
麻薬…大麻…LSDなどが、部屋からは大量の押収された。
あのまま…雄太が薬でぼろぼろになるまで、飲まし続ければよかったのか。
あたしは思う。
女にとって、最高の麻薬は恋ではないのか.....。
有希の話から、大筋は理解できた。
翠は、雄太の為に麻薬をやめさせるべきだった。
と、簡単には言えない。
彼女が愛したのは、麻薬でつくられた雄太なのだから...。
(しかし...)
長谷川は再び、眼鏡をかけた。
(それは、許されない)
麻薬をやることを許すことはできない。
彼女の選択は、最初から間違っている。
そこに、愛があっても.........。
数カ月後、刑務所から有希宛てに手紙が来た。
翠からだ。
文面は簡単だった。
【雄太に会いたい】
と、だけ…。
終わり。