ファイル10 美しき君
血に染まりし故の
愛しき夢。
あなたは、ただ…美しい。
坂城の代わりに、名護と対面した長谷川正流は、役目を終えた帰り道…かけていた伊達眼鏡を外した。
妹の知佳子の死を振り切り、歩き出した長谷川はふと足を止めた。
それは、普段はいつもある何気ない風景の一つであるが、いつもと少し色が違う為、長谷川の無意識の視線が、それをとらえたのだ。
「赤い…月?」
血のように、熟した果実のように、赤い月。
伊達眼鏡を外した長谷川は、その異様さに足を止め、目を奪われた。
そして、最寄りの駅まで歩くはずだったのに、月に魅せられた長谷川は、拘置所近くのバス停に、タイミングよく滑り込んできたバスに吸い込まれるように、乗り込んでしまった。
運命とは時に、残酷な程…無慈悲な時がある。
まったく違う2人が、混じる時、それは、神の残酷さに似た反応を起こした。
バスに飛び乗った長谷川は、無意識のまま、チケットを取ると、一番後ろに座った。
「…当バスをご利用頂き、誠にありがとうございます。当車両は、途中…」
車内に流れる無機質なアナウンスを聴きながら、さっきまでの緊張の為か、長谷川はバスの揺れについ、うとうととし、寝てしまった。
その為、今から起こる惨劇の始まりを見ることはなかった。
「あああ〜!」
絶望にも似た大きな溜め息をして、運転席の後ろに座っていた男が、突然立ち上がった。
「あああ!」
今度は、車内に座る乗客に聞こえるように言うと、
「どうして…こんなんなんだろうなああああ!」
と叫び出した。
そして、おもむろに席から離れると、運転手の横に行った。
「お客さん?」
前を見て、ハンドルを握る運転手の首筋に、男は上着の袖口の中に、隠していたナイフを突き付けた。
「恐ろしいよね〜え!よ・の・な・!か!こんな簡単に、運命が決まるのだから!」
最初、男の行動に無関心だったバスの乗客も、男のナイフに気付き、慌て始めた。
だけど、全員がパニックになることはなかった。
腕に覚えのある者は、何とか隙を見て、男を取り押さえようとしていた。
そんな状況が不満なのか…。
バスジャク犯になった男は、切り札を乗客に見せつけた。
着ていたカッターシャツを片手でめくると、腹に巻き付けた時限式の爆弾が姿を見せた。
それが、だめ押しとなり…隙を狙っていた人々も、迂闊に手を出せなくなった。
「へえ〜」
ざわめく乗客の中で、先程まで何の関心も示していなかった男が、爆弾を纏った犯人に初めて興味を持った。
犯人が座っていた席の真後ろにいた男の名は、幾多流。
幾多は、男の腹に巻き付けた爆弾を凝視した。
見た感じは、本物のようだ。
次に、男の身なりから、学生…それも、大学生であることを感じ取っていた。
その理由は、簡単だ。
この日本で一番暇なのは、学生。
それも、大学生や専門学生だ。
彼らは受験戦争を終え、後は就職するだけだからだ。
リクルートスーツを着ていても、明らかに浮いている男は、就職活動中だろう。
だとしたら、面接の帰りかもしれない。
それに、さっきから、男はバスジャクをしながらも、金などを要求していない。
「走れ!止まるなよ」
運転手の首筋に、少しナイフを押し付けながら、にやにやと笑っていた。
まるで、恐怖を与えることだけを楽しんでいるような。
こんな子に、誰がしたんでしょうか。
幾多の能力は、その洞察力だった。
(学生だが…何か退廃的な雰囲気があるな)
心の中で探りながら、幾多は犯人の心理を分析していた。
楽しんでいるように見えて、やけくそのような印象を受けた。
(成程…思い通りにならなかったか)
学生の時代が終わると、社会にでる。
今まで好きにやっていた環境が、変わる。
同世代の集まりから、世代をこえた付き合いになる。
就職活動の途中で、おかしくなる者はいる。
特に、爆弾を作れる程…優秀なやつなら、尚更だ。
(そんな中での不満や、不安が、こういう行動に出させたか)
幾多は欠伸をした。
(最初から用意してたのか。興味深いが…退屈だなあ)
バスジャクなどはやりやすい。
密室内で簡単に、恐怖で支配できる。
しかし、バスの周りには…広い世界が広がっている。
つまりだ。
いずれ、バスの中から出た時、すべては終わるのだ。
「おい!おっさん!右に曲がれ!」
犯人はナイフを突き付けた運転手に、公道を離れるように命じた。
(なるほど…一応、考えてるのか)
公道を外れ、山の方へ向かうバス。
幾多は、そのバスの中で、少しの違和感に気づいていた。
自分と反対側に座っている三人の学生。
パニックになり、バスの後方に集まっていた人々と違い、彼らは参考書や、教材を読んでいた。
その中の1人が参考書を閉じると、携帯を開き、時間を確認した。
そして、溜め息をつくと、席から立ち上がった。
「おっさん。もうやめてくれるかな?塾に間に合わなくなるだろ」
一番前に座っていた学生が、犯人の前に来た。
「貴様!座っていろ」
犯人がナイフを、運転手から学生に向けた。
「お前達は、恐怖して、大人しく!す、座っていたら、いいだよ!」
ナイフを向けても、平然としている学生に、犯人は戸惑い、震えながら、ナイフを向けた。
「大丈夫だよ!こんなやつだ」
立ち上がった学生の後ろにいた女子学生も席から離れた。
「殺す度胸なんてないよ」
その後ろにいた屈強な体躯をした学生も、立ち上がった。
無言で、2人の後ろから犯人を睨んだ。
「俺らだけでも、降ろしてくれないかな?忙しいんだよ。俺らは」
偉そうに、少し威圧的にいう学生に、犯人はキレた。
「どうして、てめえらのいうことを、きかなくちゃいけないんだよ!なめるな!」
学生の言い分に、犯人はさらにキレた。運転席から離れ、ナイフをさらに学生に向けた。
その時、ぬうっと犯人と学生の間に横から、腕が伸びて来て、犯人の腕を掴み、そのまま捻った。
「ぎゃああ!」
変な形に曲げられた腕から、ナイフを奪ったのは、幾多だった。
「!?」
突然、三人の前に現れた幾多に、三人の学生は驚いた。
幾多は、学生達に笑いかけると、
「素晴らしい。君達の自分勝手な考え」
幾多は右腕で、犯人を締め上げながら、
「だけど…」
今度は笑みを止めると、冷ややかな瞳を向けた。
「気に入らない」
幾多はそのまま腕に力を込め、犯人の腕を折った。
そして、背中から奪ったナイフを突き刺した。
「ヒイ」
いきなり男を刺し、ナイフを抜くと、血が噴き出した。
その血を気にすることなく、幾多は学生達を見た。
「君達の言い分だ」
幾多は、きいた。
「なぜ自分だけ助かろうとする?」
「てめえ!頭がおかしいじゃないのか?」
一番前にいた学生が震えながらも、強がってみせた。
その時、バスは突然急停止した。
バスの惨劇をバックミラーで見ていた運転手は急停止すると、運転席から出ようとした。
「ちょっと待ってて」
幾多はまた、学生達に笑顔を向けると、恐怖からか慣れているはずの運転席から出ることに、もたついている運転手に向かって走った。
「ヒイイイイ!」
悲鳴を上げた運転手の脇腹から、血塗れのナイフを突き刺した。
「狂っている」
学生達も、後ろに下がった。
バスが止まった為、何とか後ろの出入口から脱出しょうとする乗客達で、車内はまたパニックになる。
しかし、扉は開かない。
運転手を刺した後、冷やかに乗客の様子を見ていた幾多は、せせら笑った。
「みんな…自分だけ助かりたいのか。フッ…まあ、人間らしいか」
「あいつ、狂ってるよ」
女子学生は携帯を取り出すと、警察に電話した。
「もしもし…」
警察に状況を説明している女子学生を、 幾多はただ見つめると、腕を組んだ。
そして、電話が終わるまで待った後、
「警察が来るまで、どうする?」
女子学生に聞いた。
そんな幾多に、バス内の乗客に戦慄が走った。
乗客の動きが止まり、ただ前にいる幾多を見た。
幾多は、乗客の数を数えた。
「…10人もいるじゃないか。一斉にかかったら、勝てるかもよ」
幾多の言葉にも、乗客は動かない。
なぜなら、バスの通路は狭く一斉には、襲いかかれない。
でも、そんな分析ができる者はいなかった。
理由は、恐怖だ。
幾多はクスッと笑い、ナイフを向けた。
「警察が、来るのが早いか…。君達が全員死ぬのが先か…試してみようか?」
幾多はナイフの血を拭うと、ゆっくりと歩き出した。
「どうして、何だよ」
窓を開けて、逃げようとする乗客もいたが、中々開かない。
そんな様子に、幾多はうんざりとしていた。
「俺達が、何をしたんだよ」
学生の叫びに、幾多はこたえた。
「そうだね」
幾多は軽く首を捻り、考え込んだフリをすると、
「君達の考え方だよ」
学生に笑いかけた。
「自分だけ、助かろうという考えさ」
幾多の言葉に、
「俺達は、塾に行きたかっただけなんだ!これを、さっきのやつに邪魔され、行けなくなったんだ!どうして、こんな目にあわなければならないだよ!」
学生の主張に、幾多はこたえた。
「それが、人生だよ。予定通り行かない…。自分が思うようにはね。そんな時、どうするのかで…人は己の本質を垣間見せる」
幾多は、笑みを浮かべていた口許を引き締め、目を細めた。
「と、思うだろ?君も」
バスの後部座席にいた男が、パニックになる人々の間をかき分け、学生よりも前に出てきた。
そして、盾になるように立つ男を、ただ…幾多は見つめた。
「ここまでやる必要は、ないだろ。考え方だけで、人を殺す必要があるのか」
一番前に出てきたのは、長谷川正流だった。
あまりの疲れで、深い眠りに落ちていた長谷川は、運転手が刺されたところから目が覚めていたが、そこからの壮絶な出来事に、どう対応していいのか、わからなかった。
今もわからない。
だからこそ、前に出た。
警察が来るまで、何とか食い止める為に。
幾多はそんな長谷川に、肩をすくめると、
「その通りだよ。だけどね」
長谷川を睨み、
「そんな人の自分勝手な考えや、行動が…犯罪を生み、被害者を増やす。犯罪とは、こんなやつらがいるところで発生するんだよ」
幾多は、乗客を見回した。
長谷川は、正論に聞こえる幾多の言葉に、虫酸が走った。
そんなことを偉そうにいう幾多の手には、人を刺したナイフが握られているのだ。
「君のいうことには、筋が通っていない」
長谷川は、自分と同じ歳くらいの幾多に、何とも言えない恐ろしさを感じていた。
さっきまで、拘置所であった犯罪者よりも、異質な感じを受けていた。
しかし、逃げる訳にはいかない。
なぜなら、前に立つような人間と話せるのは、この中では自分だけだからだ。
(君の領域にやつらを導くんだ)
坂城の言葉が、頭に浮かんだ。
しかし、目の前に立つ幾多には、どうすればいいのか…わからなかった。
今、幾多にナイフを突き付けられたら、逃げる術はない。
時間を稼ぐ為にも、何か言わなければならないのに、
言葉がでない。
そんな長谷川を見て、幾多は苦笑すると、バスの前へと歩き出した。
「成る程…そうかもしれないな」
幾多は頷くと、ちらっと通路に転がる遺体を見てから、前の降り口を一歩降りた。
そして、下から、長谷川に顔を向け、
「ここは、狭い。外で、ゆっくりと話さないか?君となら、話ができそうだから」
それから、その後ろの乗客達にも声をかけた。
「他の方も、文句があったら聞くよ。外に、おいでよ」
しかし、そんな幾多の言葉を信用するものはいない。
外に出て、あわよくば逃げられるかもしれないが、もうすぐ警察が来る。
動かない方がいいと、判断する者が多かった。
それに、警察が来ることを知っている幾多が、逃走する可能性もあった。
逃げてくれてもいい。
皆、そう思った。
だから、幾多の言われた通りに、外に出る為に歩きだした長谷川の行動を、乗客は信じられなかった。
(逃がす訳にはいかない)
長谷川は、どんな犯罪者よりも危険な感じがする幾多を、このまま逃がす訳にはいかないと思っていた。
だから、外に出ることにした。
その時、長谷川がもっと冷静ならば、多くの人々を助けることができたかもしれなかった。
犯人の死体を跨ぎ、運転手の横を通ると、長谷川は外に出た。
先に外に出て、待っていた幾多は腕を組み、バスから降りてくる長谷川を見つめた。
そして、長谷川の足が地面につくと、幾多は顎でついてくるように促し、バスに背を向けて歩きだした。
「どこにいくんだ!」
長谷川は、バスから離れていく幾多の背中を追いかけた。
幾多は、長谷川に見えないように、にやりと笑った。
「よかった…何とか、間に合ったよ」
「え?」
「君なら…選んでくれると思っていたよ」
幾多が振り返り、長谷川に微笑んだ。
と同時に、凄まじい爆音が、辺りの空気を切り裂いた。
バスのガラスが吹き飛び、車体が一度浮いた。
悲鳴はしなかった。
車内はすぐに、燃え上がり、中にいた人々がどうなったかは、確認せずとも明らかだった。
「美しい」
爆音に驚いて、思わず振り返った長谷川は、そのまま動けなかった。
そんな長谷川の耳に飛び込んで来たのは、予想も着かない言葉だった。
「な」
長谷川は、その声で体の緊張が解けて、幾多の方に顔を向けた。
幾多は、愛しそうに長谷川を見つめていた。
先程から、幾多が浮かべていたうわべだけの笑みとは違った。
しばし…その視線に、長谷川は不覚にも、目を奪われた。
幾多は静かに、口を開いた。
「爆弾は、稼働していた。どうやら、さっきの男は最初から、みんなを巻き込んで死ぬつもりだったようだね」
幾多はバスに目をやり、
「…あのバスにいた乗客は、助かることができた。しかし、彼らは選ばなかった。自分のことばかり考え、他人を助ける行動を示さなかった」
「な」
「だけど…君の行動は」
幾多は微笑み、
「美しい」
長谷川を見つめた。
「…」
あまりの予想外の言葉に、長谷川は何も言えなくなった。
遠くで、警察のサイレンが聞こえてきた。
「フッ」
幾多は笑うと、長谷川に背を向けた。
「ま、待て!」
長谷川は、幾多を追いかけようとしたが、次の言葉に動けなくなった。
「君の妹さん…知佳子は、残念なことになったね。彼女には、僕の妹も世話になったしね。御悔やみを申し上げるよ」
幾多はゆっくりと、歩きだした。
「また会おう…正流」
幾多は道を外れ、山の方へと消えていった。
「…誰だ」
長谷川は、目を見開いた。
自分の名も、妹の名も知っていた。
愕然とする長谷川の後ろでは、バスがまだ燃えていた。
山道を、軽い足取りで歩く幾多の後ろから一台の車が追い越すと、止まった。
幾多は、ゆっくりと車に近づくと、何も確認せずに扉を開け、中に入った。
「お疲れ様です」
幾多を迎えに来たのは、かつて幾多と長谷川が通っていた高校の先生だった。
「ご苦労様」
幾多は、助手席に深々と座り込んだ。
静かに発車した車のハンドルを握りながら、女は口を開いた。
「幾多様…。今回は、なぜこのようなことを?」
「別に意味はないよ。ただ…」
幾多は笑い、
「正流が、こっち側に来たプレゼントのようなものさ。それに…」
「…」
女は前を向きながら、口を閉じた。
「あそこには、人の社会で生きていく資格がある者がいなかったからさ」
幾多の言葉に、女は無表情を装いながら、きいた。
「一般の人間なんて…そんなものではないですか?」
「フン」
幾多は鼻を鳴らすと、
「そんなことはない。人は素晴らしいよ」
女に笑いかけた。
「こう見えても、僕は人を信じてるんだよ。みんな…優しくなれるってね」
女はその言葉に微笑むと、
「あまり…無茶をなさらないようにして下さいね。あなた様に、もしものことがあれば…」
幾多は、女の横顔を見つめると、ゆっくりと手を伸ばし、女の足に指を這わした。
「心配するな。お前のような女を置いて死ぬことは、ないよ」
「い、幾多様!う、運転中です!」
女の体が、ビクッと反応した。
その瞬間、車も左右に揺れた。
「あ、危ない!」
何とかハンドルを切り、体勢を整える女の体に、指を這わせながら、幾多は耳元で囁いた。
「別にいいだろ?2人でいるんだから…。それに」
幾多は息を吹き掛け、
「お前となら、死んでも構わないよ」
「い、幾多様!」
女は、急ブレーキを踏むと、
「ああ!」
恍惚の声を上げた。
終わり。