ファイル1 閉じ込められた孤独
あたしは、しがないただの専業主婦。
夫もしがないサラリーマン。
何の取り柄もない。
ただ毎日、掃除をして、夕食の用意をしていた。
そんなあたしがなぜ…こうような場所に閉じ込められ、監禁されているのだろうか。
もう30歳を過ぎたあたしを、誘拐する意味があるのだろうか。
確かに、若いときはそれなりにもてたけど…。
あたしの前に座る眼鏡をかけた男は、何の飾りもない机に、二枚のカードを並べると、そっと差し出した。
「木野律子さんですね」
男は、あたしに話し掛けた。
鋭い視線を向ける男は、あたしを性的対象として見ているようには思えない。
だけど、その刺すような視線は、あたしの瞳の奥の何かを探っているように感じた。
(何を…?)
あたしは別に、縛られているわけではなかった。
ただ四角い正方形の部屋の真ん中に置かれた机に、男と対面する形で座らされていた。
そして、あたしの真後ろには、ドアがあった。
(すぐに逃げれるわ)
他人事のように思っていたが…なぜか体がだるくって、立ち上がる気が起きなかった。
(薬でも、飲まされたのかしら?)
そういえば、今朝だされたごはんには、味がなかった。
あたしは思わず、視線を外し、膝の上できつく握られた両手に目を落とした。
「木野さん?」
男は、下を向いているあたしの顔を覗き込んだ。
「は、はい…」
あたしは声を震わして、顔を上げた。
「どうかなさいました?」
男の事務的な口調が、逆に怖くて、あたしの体はガタガタと震え出した。
その震えは、机を揺らした。
「あ、あたしを、い、家に帰してください!い、家に帰らないといけないんです!お、夫の食事の支度もありますし…」
男はあたしの言葉を遮るように、
「今から行うゲームに、答えて頂ければ、帰れますよ」
「嘘よ!も、もし間違ったら…あ、あたしを…」
震えが、怯えに変わるあたしの様子に、男は軽くため息をつくと、
「ご心配なく…。このゲームに間違いはございません」
緊張を解こうとしてくれているのか…あたしに少し微笑みかけた。
「音楽でもかけましょう。木野さんが、好きだと言っていた曲でも」
男はちらりと、後ろに見た。
あたしが、閉じ込められている部屋に、どこからか音楽が流れてきた。
Fly Me To The Moon。
あたしを月に連れてって。
音楽が流れる中、ゲームは始まった。
間違いがないというゲームのルールは、簡単だった。
机の上にある月のカードと、太陽のカード。
それを今から、男があたしに問いかける質問に対して、月と思うか、太陽と思うかで、どちらかのカードをあたしが手に取るだけだった。
男は深呼吸すると、あたしに告げた。
「このゲームを始める前に、私の名前を言っておきましょう。このゲームの正統性を示すために…」
「あっ!」
あたしは素っ頓狂な声を上げて、手を叩いた。
「長谷川さん…長谷川さんでしたね」
名前を思い出したことが、嬉しそうなあたしの反応に、
長谷川正流は、自分の膝の上に置いてあったノートに、ペンを走らせた。
「あらあ?」
あたしは、首を傾げて、
「…どうして知ってるのかしら?」
改めて、あたしは目の前に座る長谷川を見た。
あたしを閉じ込めているのは…知り合い?
そう思うと、あたしの全身に、悪寒が走った。
「木野さん」
長谷川はじっと、あたしを見つめ、
「初めても…よろしいですかね?」
その視線の鋭さに、あたしはただ頷いた。
長谷川は、あたしの目を見つめたまま…おもむろに最初の質問を口にした。
「家庭生活は、月ですか?太陽ですか?」
「はあ?」
あたしは質問の意味が、わからなかった。
「ど、どういうことですか?」
あたしの困惑にも、長谷川は動じずに、トーンを変えることなく冷静に言った。
「直感で構いません」
しかし、狼狽えるだけで、こたえることのできないあたしに、長谷川は自らの緊張を一回解くかのように、また笑いかけた。
「でしたら、違う質問を先にしましょう。太陽と月…どちらが好きですか?」
その質問は、あたしにとって簡単だった。
あたしは、月のカードを手に取った。
「どうしてですか?」
取ったカードの絵柄を見ずに、あたしの瞳の奥を覗こうとしているように感じる長谷川の質問に、あたしはなぜか素直に答えた。
「昔は、太陽が好きだったんですけど…どうしてでしょうか?今のあたしには、眩し過ぎて、月の明かりの方が柔らかい感じがします」
「そうですか…」
長谷川はまたノートに、ペンを走らせながら、
「先ほどの質問を繰り返します。家庭とは、太陽ですか?それとも、月ですか?」
「それは勿論…」
あたしは自然に笑顔を浮かべながら、太陽のカードに手を伸ばした。
しかし、机の上にあるカードを手に取った瞬間、カードはあたしの手から、零れ落ちた。
「あらあ…すいません。どうしたのかしら?」
何度も取ろうとするけど、あたしは取れなかった。
「もうわかりましたので、取らなくて結構です」
長谷川は、冷たく言い放つと、次の質問をした。
「太陽という理由は、どうしてですか?」
あたしはなぜか…カードを取ることに拘っている指先を見つめた。
じっと見つめていると、自然に指は諦め…机の上から下に落ちた。
太陽の絵が書いてあるカードを、見つめる視線だけが、諦めなかった。
自然と口が動いた。
「太陽って、掴めないじゃないですか。真上にあって」
切なくカードを見つめ続けるあたしに、
「それは、月も同じではありませんか?」
「あっ!そうですね…だけど」
長谷川の言葉に、あたしはフッと笑い、
「太陽は熱過ぎます」
「そうですか…」
長谷川は、走らせていたペンを止めた。
音楽が止まった。
だけどすぐに、再び同じ曲が始まった。
長谷川はしばらく、あたしを見つめた後、質問を続けた。
「明るいのは、太陽ですか?月ですか?」
他愛のない当たり前の答えしかない質問が、しばらく続いた。
そんな時は、長谷川はノートに書き込むことをしなかった。
そんな他愛もない質問に、数問答えた後、あたしは自分でもわからないが、キレた。
机を叩き、立ち上がり、
「いつまで、こんな質問を続けるんですか!あたしを家に帰して下さい!」
再び興奮状態になるあたしを、長谷川はゆっくりと見上げて、
「あと…数問で終わります。それに、お答え頂ければ…あなたは帰ることができます」
「本当ですね!」
あたしは長谷川を睨んだ後、静かに腰をおろした。
長谷川はノートから手を離すと、机の上に両肘をつき、
「あなたにとって」
一度言葉を切り、
「男とは…太陽ですか?月ですか?」
あたしは、目を丸くし、
「男ですか!」
声を荒げた。
「そうです」
長谷川の口調は、変わらない。
あたしは、その質問になぜか…自分でもわからないけど、ヒステリックになった。
「男!男!男なんて」
男という言葉を口にするだけで、頭に血が昇っていく。
両手で、髪の毛をかきむしり、
「男なんてえ!」
叫びまくった。
「木野さん。落ち着いて、カードを選んで下さい」
「いやああ!」
あたしは太陽のカードを掴むと、床に捨て、踏みつけた。
何度も何度も踏み付けるあたしに、長谷川は冷静にきいた。
「太陽なのですか?」
「太陽のわけがないわ!」
あたしは、カードを思い切り踏み付けながら、
「太陽のわけがないわ!」
「でしたら…月なのですか?」
長谷川は、机から離れない。
「月…月?」
あたしは動きを止め、机の上に残った月のカードに目を向けた。
「月…」
なぜか、あたしの瞳から、涙が流れた。
「月のはずがありません…」
「でしたら、女はどうですか?」
長谷川は質問を変えた。
「女?」
あたしは、長谷川に顔を向けた。
そして、ゆっくりと歩きだすと、長谷川の隣に立ち、顔を近付けた。
「それは、あたしもですか?」
長谷川は答えず、あたしに顔を向けた。至近距離で、目が合う。
「あたしは、女ですよね?」
何もこたえない長谷川から、あたしは顔を背けるように離れると、また髪をかきむしり、
「あれも…女?」
「あなたは、女ですよ。そして…」
やっと長谷川が、口を開いたのに、遮るようにあたしはカードを拾いながら、
「女は、落ちた太陽よ」
口元が緩んだ。
「月ではないと…」
嘲るように笑みを浮かべるあたしに、長谷川はまたきいた。
「月?」
「月は…満月や、三日月へと変化しますが、あなたはどう思いますか?」
「変化したら、いけないのよ!月のように、欠けたり満ちたり…満月が短いなんて、幸せが短いなんて!!」
癇癪を起こすと、あたしはカードを捨てた。
「駄目よ!」
その場で崩れ落ち、泣き出すあたしを、長谷川はただじっと観察していた。
声を出して泣いた後…あたしは平然と、席に戻った。
涙を拭うことなく、泣いたことに気付いていないように、背筋を伸ばして、長谷川に顔を向けた。
「あたしは、いつ家に帰れるんですか?どうしたら、ここから出して頂けますか?」
長谷川も無表情で、あたしを見た後、少し深呼吸をすると、席を立ち…床に落ちている太陽のカードを拾った。
そして、再び机の上にある月のカードの横に置いた。
「簡単なゲームを行います。私の質問に、太陽と思うか、月と思うか…心のままにカードをお取り下さい」
「わかりました」
あたしは、もう一度姿勢を正した。
「これが、最後になります」
長谷川はじっと、あたしを見つめ、
「木野さんにとって、お子さんは…太陽ですか?月ですか?」
あたしは、即答した。
「太陽でした」
「でした?」
「はい」
あたしは頷き、月のカードを手に取った。
「夜泣きはひどいし、疲れましたけど……あたしには、太陽でした…」
あたしの手から、月のカードが滑り落ちた。
「先生…」
律子は、席を立った。
そして、長谷川を見下ろし、
「先生。少し疲れましたわ。外に出てもいいかしら?」
笑顔できいた。
長谷川も立ち上がると、ノートを机の上に置き、律子に笑顔を向け、
「いいですよ。少し…外の新鮮な空気を吸われた方がいいですから」
長谷川は、律子の横を通り過ぎると、後ろのドアを開けに行った。
「……」
律子は机から離れ、ドアの方に体を向けると、ゆっくりと歩きだす。
「失礼します」
そして、頭を下げた後、長谷川が開けているドアから廊下に出た。
手を前で揃え、背筋を真っ直ぐ伸ばすと、廊下の先だけを見つめ、歩いていく。
「長谷川先生」
ドアの外に控えていた男が、律子の背中を見送りながら、長谷川にきいた。
「彼女はやはり…」
「ええ…間違いありません」
長谷川は頷いた。
机の上に置いたノートには、ある新聞の記事が挟んであった。
育児ノイローゼにかかっていた34歳の主婦。夫の浮気に気付き、夫と浮気相手である女性を殺害。
浮気相手の女性は、加害者の親友であった。
殺害時、一歳の赤ん坊も死亡。
但し、赤ん坊は…加害者が現場に連れてきた為、殺害時の混乱により、あやまって亡くなったものと思われる。
赤ん坊は事故死とされた。
「だけど…」
長谷川は、廊下をゆっくりと歩いていく律子の後ろ姿を見つめ、
「彼女は、もう戻ってくることはありません」
刑事も、律子の背中を見つめ、
「太陽を自らの原因で亡くしてしまった母親は…もとには戻らないでしょう」
「それでは…」
「彼女は、永遠に…彷徨いますよ。自らの心の裏側を」
長谷川は初めて、悲しそうな表情を浮かべた。
「先生いいんですか?外に出して!」
廊下にいた長谷川の助手が、叫んだ。
「いいですよ。どうせこの施設からは、出ませんから…」
長谷川は、精神科の医師だった。
「彼女はここから、出ません。閉じ込められていると思い込むことで、何とか生きているのです。帰る場所がなくなったのに…帰らなければならないと思うことで…」
「彼女は、覚えていないのですか?」
刑事の問いに、
長谷川は薄ら笑い、
「人はあまりにも、ショックなことがあると…忘れるといいますが…あそこまでいきますと…」
廊下の向こうで、律子はドアの前で止まった。
「覚えていない…忘れたというレベルではないでしょうね。完全に心を閉ざそうとしていながら、罪の意識がそのことを許さない」
その事実である…地獄から助けだし、救うことはできないだろう。
子供を失った母親。どんな薬で治るというのか。
そんな時、精神科医はただ…今ある結果を事例と比較、確認し、報告するだけだ。
薬で誤魔化すことはできる。
しかし、それも地獄であると、長谷川は思っていた。だから、彼は薬をできるかぎり使わない。楽をする訳にはいかなかった。
長谷川は、無意識に律子の背中に頭を下げた。
律子は自ら手を伸ばすと、廊下の先にある鉄製の扉のノブに手をかけ、外に出た。
そして、外の眩しさに目を細めた。
「先生?日傘はございませんか?日射しが眩し過ぎて、お肌に悪いですわ。紫外線がきつくって」
律子の言葉に、長谷川は部屋の前で、もう一度頭を下げた。
「生憎…ここには、日傘はございません」
「仕方ありませんわね」
律子は、外に出た。
「少しくらいの散歩でしたら…陽に焼けないでしょ」
目を細めながら、光の下に出た律子はすぐに振り返り、まだ部屋の前で見守っている長谷川に、頭を下げた。
長谷川も笑顔で、頭を下げた。
そんな長谷川に微笑みかけると、そのまま…ゆっくりと前を向き、歩きだす律子の真上に、
月が輝いていた。
End…。