正義という名の信仰。
人間は、自分が正しいという確信と共に生きる生き物です。そして、自分は正しいという確信を求めて生きる生き物でもあります。それが悪いとは思いません。それは人として当たり前のことだと思います。
ただ、正義というのは本質的には信仰です。「理想の正義」というのは、「万人が信仰できる宗教」と、なんら変わりありません。
現代においては、(他者の権利を侵害しない限り)何を信仰するのも自由だという、「信仰の自由」という名の信仰が広く信じられています。それは、とても大切な、信仰するに足る価値観だと思います。
だから私は、フラットアーサーやスペースビリーバーたちが「居てはいけない」と思いません。ただ、私には彼らの価値観を全面的に肯定することはできません。そしてそれは、立場を逆にしても同じでしょう。
――だから私は、私が正しいと思うことを主張します。
私は、彼らを否定するつもりはありません。ですが、彼らに私を否定される謂れもありません。私の正義には、私が信仰するに足るだけの価値があることを、私は知っているのですから。
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率直に言って、地球平面説を主張するフラットアーサーが、その主張において他者より優れているとは、到底思えません。また、自らの宇宙論を正しいと盲信したままに反論をするスペースビリーバーのような人が彼らより優れているとも思いません。
世間一般の常識に反した主張をしていると自覚しながらそれを否定するフラットアーサーと、世間一般の常識だから正しいとデマを含む論を信じてしまうスペースビリーバー。
――正しいことをデマだと言うフラットアーサーと、デマを正しいと言うスペースビリーバー。私には、この両者は本質的には同じ問題点を抱えていると思いますが、どうでしょう。
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インターネットは、自分の望む知識を探してくれる道具です。だから、そうと望めば、荒唐無稽なソースだってきっと見つけてきてくれます。そして、インターネットは、それが嘘かどうかを判断してくれません。判断するのは自分自身です。
信用できる個人や団体なんて、この世のどこにもありません。どんな権威にも思惑はあるでしょうし、その思惑のために情報を流すなんてことは、むしろ当然のことです。
文字よりも写真の方が信用できるなんてことはありませんし、動画の方が信用できるなんてこともありません。真実っぽくみせかけることで面白くする類のゴシップも五万とありますし、それを真実のニュースとして紹介する人もたくさんいます。門外漢であればあるほど、そういう情報を真実だと見誤ることも多くなるかと思います。
――科学も宗教も、知らないままに信じれば、「盲信」です。神の死んだ世の中で、そんな盲信だけは、今も形を変えて生き続けています。
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SNSでよく見る、価値観の違う者同士の言い争い。これを議論だと思い込んでいる人があまりに多いと思います。
議論というのは、つまるところ、意見の交換の一形態でしかありません。一つのテーマに対して、互いに正しいと思ったことを主張しあう。そして、疑問に思ったことを質問しあって、不明点を無くしていく。
そうして最後に、明らかになった相手の意見に対して自分の見解を述べる。そうすることで、ある一つのテーマに対して、異なる立場に立ちながら互いの思考を共有する。
そうすれば、互いに異なる答えが出ても、それを理解することができるようになる。そうやって、より多くの人が共有できる考え方を導き出して、より多くの答えを理解できるようにするための話し合いを議論と言うのだと思います。
結論を互いに理解しあえば十分なはずです。そこで止まらずに、意見の相違で相手を拒絶したり相手の意見を変えようとしたりすれば、それはもう議論とは違う何かだと思います。
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私は、正しいと思うことを主張する人を笑いたいとは思いませんし、自分が正しいと思うために誰かの正しさを否定したいとも思いません。それでも、私の正しさを主張することで誰かの正しさを否定することになるのなら、私は自分の正しさを優先します。
フラットアーサーにもスペースビリーバーにも、私は同調することができません。私は地球は丸いと思っていますし、宇宙論の歩んできた歴史が万人に正しく理解されているとも思えません。だから私は、自分の正しいと思ったことを主張します。他の誰かに遠慮して、自分の正しさを控えるつもりは毛頭ありません。
――そして私は、「それは間違いだ」という形の主張は、極力したくありません。主張をするのなら、「地球は平たくない」という形ではなく、「地球は丸い」という主張をしていきたいと思っています。
北半球では北極星、南半球では南十字星が瞬いている。赤道に近づけば日は高く昇り、北極や南極に近づけば低くなる。北海道は寒く、沖縄は暑い。
こういった「地球が丸いから起こる事象」を積み重ねていけば、たとえほんの少しでも、世の中に「地球は丸い」という認識が広がると思います。
これは、フラットアーサーとは相いれない主張かもしれません。結果として地球平面説を否定することになるかもしれません。それでも、これは地球が丸いことを説明するための論であって、地球は平たいことを否定するための論では無いと、私は思います。
――そして、こういった姿勢を取る人が増えれば、自然と議論は深まると思うのです。
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ツイッターでは、フラットアーサーやスペースビリーバーのような、常識を否定したり非常識を馬鹿にする人たちの声が、あまりに広がりすぎていると感じます。そして、その声の大きさに引きずられるように賛同者や反対者の声が沸き上がって、さらに声を大きくしてしまう。結果、多分いるであろう「理性的な声」がかき消されてしまっていると、そう感じます。
直近の2つの選挙、大阪都構想の住民投票とアメリカ大統領選挙において、その弊害を私は強く感じました。
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大阪都構想の住民投票では、「大阪都構想の是非」が話題に上がらず、「これは都構想ではない、大阪市廃止の投票だ」だの「大阪維新は市の財源をむしり取ろうとしている」だの、そんな言葉ばかりが流れてきました。
まあ、それはそうでしょう。あれはそのための住民投票だったはずですから。
あの住民投票で問われていたのは、「市町村」という細かい単位の地方自治体を排して広域的な地方自治体である「府」が直接地方自治を行うことに対する是非でしょう。
もちろん、都構想を強く主張している大阪維新の会の是非だって重要な要素だとは思います。ですが、その大阪維新の主張を鸚鵡返しにしたような賛意の示し方や、その主張に対する瑕疵だけを集めたような反対の仕方は、健全なものには感じませんでした。
もう少し、本質である「大阪府が住民に対して直接サービスを提供することに対する是非」に対する主張は、賛成派、反対派双方から出てしかるべきだったと思います。
アメリカ大統領選はもっと酷かった。正義のトランプvs悪のバイデンみたいな主張が突如として現れ、今も続いています。……というか、これはまあ、選挙が始まるまで私が知らなかっただけだとは思いますが。
選挙日当日にトランプ優勢の報で盛り上がって、その後バイデン票が遅れて開票され始めたら「大規模な不正がなされてる」という声が湧き上がる。正直それってどうかと思います。――アメリカの投票制度は杜撰だ、だが安心してほしい。投票用紙にはGPSが組み込まれてるからじきにバイデンの不正は全て暴かれることになるとか、本当にすごい発言ですよね。この短い一文にどれだけの矛盾と侮蔑がこもっているのでしょうか。
――他国の公平に行われているであろう選挙に対する妄言に乗って、その国の民主主義を否定する。そしてその選挙で選ばれて次期大統領になるであろう候補者に対して暴言を繰り返す。もはや節度とか、そんなレベルではありません。その人の正気を疑います。
そんな、眉を顰めたくなるような声が、ツイッターにはあふれかえっていたのです。
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常識を否定すれば、自己肯定感を得られるんですよ。私は他の人が見えていない事実に気付いていると。だから、常識を否定した分だけその人は強くなりますし、その強さの源を簡単には手放そうとはしません。そしてそれは、非常識を馬鹿にする人も同じです。世の中には愚かな人がいるという形で自己肯定をして優越感を、強さを得ているのです。
彼らは気付いていないのです。世の中に、本当の意味で「万人にとって明らかな事実」なんてものは無いことに。そして、何を信じて何を発信するのも自由で、同時にそれは自分の責任だということに。
世の中の全てのことは、その人が認識する形で見えています。それを支えているのは、その人の信じる価値観であり知識です。そしてその知識も、その人自身の価値観に左右されます。どれだけ豊かな知識も、その人の主観で集められたものでしかあり得ません。それまでの生き方、価値観、経験、そういったものがその人を形作るのです。
そして、常識を否定する生き方も、非常識を馬鹿にする生き方も、自分自身を形作るのを阻害します。否定しているだけでは何も積み上げることはできません。自分で自分の正しさを構築しなければ、成長できないのです。
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弊害はね、あるに決まっているんですよ。常識を否定している人と非常識を馬鹿にする人たちが言い争う社会が、前に進むと思いますか? フラットアーサーとスペースビリーバーが言い争う世界が健全に発展するとおもいますか? 私にはそうは思えません。誤った認識を土台にしたら、誤った発展しかしないと思います。
――そして何より、そんな価値観を抱えてできた「仲間」に、価値はないと思います。
他者を否定して生きる人よりも、他者を肯定して生きる人の方が、何十倍も価値があると思います。
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フラットアーサーやスペースビリーバーにとって最も大切な人は、自分の意見に賛同してくれる人ではないと思います。非常識な主張も盲目的な主張も、賛同されなくて当然です。だからむしろ、賛同してくれる人は自分と同じ偏りを持っている、そう考えた方が自然です。
たまたま同じ偏りを持っているから話が合う、それはわかります。でもね、それは単なる「同好の士」でしかありません。話が合う内は好意を持って迎え入れてくれるかも知れませんが、話が合わなくなれば終わりです。
それよりは、自分の意見に賛同してくれていないのに親しく接してくれる人を、まずは大切にしませんか? そこにはきっと、正しさとは違う、価値のある何かがあります。
それは友情かも知れません。
義理人情かも知れません。
もしかしたら愛情かも知れません。
尊敬の心、親愛の情かもしれません。
人の関係というのはさまざまで、それらは皆、価値のあるものだと思います。
正しさを共有してできる関係に、大した価値なんてありません。確かにそれは強さの源になります。でも、そんな強さよりも、人とのつながりが生む情の方が、遥かに価値のある物だと思います。
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まあでも、これはアレですね。少し前に私は自分のことを「フラットアーサーと同じことをしている」なんて書いてますし。結構スペースビリーバー的な考え方をすることもありますからね。
うん、まあ、自分のことを棚に上げてるなあと(笑)
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他から持ってきた知識は、たやすく信じても安易に否定してもいけません。ですが、自身の価値観の元になるのは、他から得た知識や価値観なのです。究極的には、私たちは先人たちが積み重ねて育て上げてきたものを元にして、それらを組み合わせて生きています。
だからこそ、多くのことを知って、考えて、自分自身が信じるに足る価値観を選んで積み重ねていくのです。そうやって自身の価値観を育てていくのです。
そこに必要なのは、信頼できる単一の知識ではありません。より多くの、さまざまな角度から見た知識や、さまざまな価値観です。そこに絶対的な正しさはありません。どんな知識や経験も、さまざまな見方があるのです。
だからこそ、常識や見たままよりも、自身の価値観を信じることが大切だと思うのです。そして、他者の価値観に触れて自身の価値観を育てていけば、自身の正しさに自信が持てるようになる。そうして得られた正しさは、ありきたりで間違った主張よりも、はるかに強い力を言葉に与えてくれると思います。
――そんな正しさのことを私は「信仰」と言うと思うのですが、どうでしょうか?
結局、何事も突き詰めていけば、最後は信仰になるのだと、私は思います。そして、それを正しさではなく信仰だと認識すれば、必要以上にぶつからなくても良いと思えるのかな、とも。そうするためにも、盲信ではなく、正しく信仰すべきかなと。
何より、信仰を広めるのに必要なのは、相手を否定することではありません。自分と異なる考え方を否定しあうより、自分と同じ考え方を増やすために布教をする、そんな世の中の方が好ましいと、私は思います。