2.
2−1
まるで痛いみたいだった。
右手の人差し指と中指を見やる。
白くて短く、少しふっくらしたお餅みたいな指。指先に触れると割る前みたいな硬いお餅。この一ヶ月、練習のし過ぎでタコができてしまった。
それもこれも、めちゃくちゃ難しい課題曲のせいだ。
「どうしたの? キム」
隣に座るヨンハがーーわたしと同じクラリネット奏者。スタイルがいいーー教室の窓から入ってくる夕陽を浴びながら首を傾げた。
「ううん、なんでもないよ」
そう言いながらも、わたしがタコのできた指を気にしていることを見抜いたのだろう。
ヨンハがクラリネットを胸に抱えながら、むーっと頬を膨らませた。
あれ、なんか怒ってる?
「キムってば、ま〜〜〜た! 赤い糸の人のこと考えてる」
わたしはほわっ、と大きな声を出してしまった。そして慌てて首を振った。
「ち、ちがうよ! 今のはホントに指のタコができたなあって……そりゃあ、さっき、なんか様子がおかしかったけど」
赤い糸。運命の人と繋がっている小指。それを意識し始めたのは、わたしが保育園に通うようになってから。
ある日、幼稚園のころのわたしよりとっても小さな手の存在にきがついた。それが小さな手だとわかったのは、生後すぐのころの弟の手を握ったことがあったからだ。
最初は、小さな手の存在に幽霊がずっとわたしの手を引いているのかと思って、怖くなってお母さんに相談した。
幽霊に引っ張られて死んじゃうんだ〜と嘆くわたしの頭を撫でながら、お母さんは微笑んでいた。
「それはね、赤い糸っていうの」
「いと? いとなんてどこにもついてないよ」
「お互いを支え合う人同士は、生まれつき神様が結んでくれているのよ」
「ささえる?」
「キムがくらい気持ちになったとき、一人じゃないって教えてくれることよ」
お母さんの言葉はよくわからなかったけれど、そうかそうか大切な人なんだ。そう思うと、小指の先にいるあかちゃんの手がとても愛らしいものにかんじられた。
それから高校生になった今でも、赤い糸は断ち切れることなくどこかの誰かと繋がっている。赤い糸の先にいるのは統計的に異性であることが多いらしい。わたしの先には手遊びの多い男の子がいる……と思う。最近は、よく走っているみたいだった。手の感覚しか伝わってこないけれど、指を丸めて振っているのがよくわかる。陸上部……とか、かな。サッカー部かも。
最近は、よく指を握りしめていることがあった。
最初はそういう運動なのかと思っていたけれど、今日みたいにギュッと、なにかを抑え込むみたいに指を強く握りしめていることがある。
よく、思う。痛いみたいだって。
「キ〜〜〜ム〜〜〜」
ぷっくら頬のヨンハが机につっぷしながら強い目力でわたしのことをじーーーっと見ていた。
「わわわ、と、とにかく違うよ」
「まったくなにがちがうのかな。ふぅ、まあいいや、そろそろ遅くなったし帰ろっか」
「……」
下校時刻まであと四〇分ある。今日はパート練習だから集まることはないけれど、それでも通しの練習ができるくらいの時間がある。
赤い糸の先の彼が悩むように、この一か月、わたしも立ち止まっていた。
吹奏楽部が出場するコンクールに向けた課題局。わたしが担当するクラリネットには鬼門があって、バイオリンのソロ直前に奏でる連弾に合わせたパートで、上手くはまれば色鮮やかな風景が見えるとまで言われているくらい綺麗なんだけれど、逆に言えばミスがソロにまで影響して最悪コンクール出場に致命傷を与える。
……多少、言い過ぎだとは思うけれど、先生はいつもそうやってわたしを怒る。それはまあ、ひと月経ってもまともな運指ができないからなんだけれど。
だって、難しいんだもん。
頭の中で困難な楽曲へのため息を吐きながら唸っていたり呻いていたりすると、外側から指パッチンをしてわたしの意識を戻すヨンハ。
「帰らないの? 一人で残るの?」
「……うん、かえろう」
わたしはクラリネットを片付けた。たかだか一時間足らずがんばったくらいで、一ヶ月も詰まっている部分が劇的に上達するとは思えないもんね。それに、ヨンハが先に帰るんだったら、わたしも一緒に帰るべきだ。うん、そうするべきだよね。
クラリネットの部品を外して洗面所で掃除兼手入れ。水道が銀色シンクを叩く音に混じって、遠くから太鼓やシンバル、トランペットの遠鳴りが聞こえた。わたしたちのコンクールにはいい音がたくさんあるなあと思い、鼻歌でコーラスを入れた。
2−2
ベッドの上で寝転びながらヨンハへの返信を打つ。帰り道に寄ったショップのイケメン店員をいたく気に入ったらしい。わたしの見立だとヨンハのほうが美女過ぎて釣り合わない気がする。
「『弁護士志望とかだといいね』っと」
指先でスマホのフリックをして、ふと思う。こんな生々しい会話を、赤い糸の先から覗き見られてはいないだろうか。
相手が年下の男の子だったら、大人の女性に幻滅してしまうかも!
ちがうよ、いつもこんな会話をしているわけじゃなくて、これが惚れっぽくて女のコらしいヨンハとの付き合い方というかね……?
そんなことを口にしたところで、伝わるのはあたふたとした手の動きくらいのもので。
ベッドから起き上がる。指先を立てて、机の上に開きっぱなしだった宿題ノートに文字を書いた。
『|건강<<元気>>?』
わたしの指先が描いたちょっときりりとしている文字は相手方にちゃんと伝わったかな。
手先に感覚を集中する。これを読んで返信を期待していた。けど、通知も表示されないメッセージを見るほど暇ではなかったらしい。
「また走ってる」
わたしじゃない指先は、卵を包むみたいに軽く握りながら、ぶんぶんと強く振っている。わたしの生活でこんなに腕を振ることはない。
「頑張ってるんだなあ」
部活帰りに聞いたトランペットの音を思い出す。学校に響き渡っていたあの大きな音色を。
「けど、もっと楽しそうに走ればいいのに」
なんだか、ぶんぶんと腕を振って、驚きの真実で彼が逃亡犯じゃなければ、ただ走っているだけなんだとしたら、なんだかがむしゃらって感じだ。