始動
ひとしきり叫び終わった大尉と呼ばれた美しい男が満足げに長い溜息を吐く。前かがみになり再びクツクツと肩を震わせはじめたかと思うと、男は上目遣いに東海兄弟をぎろりと見た。
「さぁ。お迎えの車のご用意が出来ております、東海少佐。御自らご家族へご説明なさる機会も、源大佐がご用意下さっております。これ以上、ワガママを申されるのでしたら源大佐からのご好意を無下にしたと判断し、この羅刹主・伴実が、指ひとつ鳴らして弟君の左足から食べるよう命じましょう。」
花のような立ち姿をした男の口から天井の調べのような声音でもたらされる演劇めいた恐ろしい指示に、愛美は勿論、左足を食べられるかもしれない駿もぞわりと身体を震わせた。
ただのサラリーマンだと思っていた兄が少佐と呼ばれていることも、息遣いすら感じられるほど近くに居る異形のことも、大尉と呼ばれた美麗風采の男のことも、最早理解を超えている。東海双子は兄に何かを尋ねようにも、言葉すら出てこなくなってしまっていた。
「思い上がった言葉を吐くなよ、伴実大尉。君が大佐から預かったその羅刹、粉微塵にされて困るのは君の方だ。」
「やれるモンならやってみろよ、血縁外が。お前がどんな手を使って大佐の懐に入り込んだか知らねェがよォ。八回死ななきゃわからねぇなら16777216回殺してやるよォ!」
「そうだね。それはいい数だ。16777216回羅刹を切り刻むこととしよう。それと、勘違いはしないように。」
兄が動く。衛は双子を背後に庇うようにして一歩踏み出すと、そこで止まった。
次の瞬間。さらりと、羅刹と呼ばれた鬼が粉塵と化す。ガラスの散らばるフローリングの床の上に、赤黒い砂の山ができる。その砂が3秒と経たずして、じゅわりと湿り気を帯びた。血だ。あれは鬼の血だ。そう感じた双子は鏡に映したようなそっくりな動作で後ずさり、口元を手で押さえた。そうしている間にも湿り気はどんどんと範囲を広げ、気付けば赤黒い砂は、じゅっくりとした血の池へと変化していたのだった。
「僕が大佐の懐程度に納まるような男だと、努々勘違いしてくれるな、直系。」
兄がただ一歩、前に歩み出ただけで異形が跡形もなく崩れ去った。
そうか、そうなのか。双子は思い至る。この場で誰よりも人間離れしている、異形よりも恐ろしいのはこの兄なのだ。それを伴実と呼ばれた婉転の男は知らなかっただけなのだ。
身内すら知りえていなかった衛の恐怖足りえる事実を、犬猿の仲であろう伴実が知るわけもなく、実伴は美しい顔を唖然に歪ませ、珠のような汗をかいている。
「なっ……は……?」
理解も想像も及ばぬ範囲であったのだろう。あんぐりと口を開けたまま、実伴は言葉を忘れてしまったようだった。
実伴が動かなくなったことを確認すると、衛がくるりと双子を振り返る。先ほどまでの意味の分からない応酬や異形にすっかり竦んでしまっていた双子は、揃ってびくりと震えた。
その様子を見て、衛が僅かに呼吸を止める。それから諦めたかのような短い溜息を吐き、仕方ないといった風に微かに苦笑した。
「驚かせてごめんね、愛美、駿。呼ばれてしまったからには出向しなければならない。施設へ向かう道中に詳しい説明をさせてくれ。
さぁ、携帯と財布だけ持ってきなさい。あとで何か必要なものがあれば持って来させるから。」
「わかった。愛美はここに居ろ。俺が取ってくるわ。」
「いい子だね、駿。血を踏まないように気をつけなさい。」
身体の硬直が解けない愛美に代わって、駿が衛へ返事をし、そして動く。言われたとおりに血を踏まないよう気をつけながらリビングを出て、一番近くのドアを開けた。その先は短い廊下になっており、右側に愛美の部屋、左側に駿の部屋、そして一番奥まった場所にあるドアが衛の部屋になっていた。駿は愛美の部屋に先に寄り、部屋を見回して通学鞄を見つけ、中から携帯と財布を手に取る。
すぐさま踵を返して向かいの自室へと向かい、迷いのない歩みで、愛美と同じように通学鞄へしまってあった携帯と財布を持った。
時間にして三分もしない程度だっただろう。駿が双子の片割れと兄の下へ戻ろうとした時、廊下の方から再び、歪んではいても尚美しいアルトの高らかな笑い声が上がった。
何かが起こる。そう感じた駿はすぐさま兄妹の許へと足早に向かう。傍目に伴実の様子を伺えば、片手で顔を覆いつくすように掴んでおり、その肩は未だ笑いの余韻で震えていた。
「取ってきた。これからどうすんだよ。」
「迎えの車が来てるらしいから、それに乗って行くよ。場所は……そうだな、軍部特務機関と言ってもわからないよね……僕の職場だから、安心して。二人に手出しはさせないから。」
「……わかった。」
兄のことは一般企業に勤めるサラリーマンだと思っていた駿は、軍部特務機関と聞いても理解が及ばない。愛美も同じで、先ほどから近くで交わされる会話も何もかもが遠くの出来事の様に思えて仕方がない。まるで体験型の映画を見ているかのような気持ちだ。
動けないままの愛美の肩を駿が抱き、歩き始めた兄の後ろを追うように促す。衛は血溜まりの上を靴下のまま、そこには何もないかのように歩き、白い布地がじわりと赤黒くなることを気にも留めていないようだった。
家族の、兄のことは分かっているつもりでいた駿は、どんどん遠のいていく兄という存在に顔を顰める。足元が覚束ないほどの恐怖を覚えている妹の心理を、心のうちを、本当の意味で理解しきれていないのだ。双子にとって、血溜まりの上を歩くということは初めてだというのに、兄は、そう、そんなことは当たり前だと感じているだろうから、分かっていないのだ。
愛美の靴下は紺色だが、汚れてしまっても分かりにくだろうなんて理由だけでは、廊下いっぱいに広がりきった血溜まりの上を歩かせることなどできない。
駿は無言で愛美を抱き上げると、愛美は無言でぎゅっと震える手で駿に縋る。そのまま、笑いの余韻から抜け出せずに居る伴実のことを横目に警戒しつつ、血溜まりの上を歩き、兄の背中を追う。
駿の白い靴下が、ぐじゅりと音を立てて赤黒く染まった。