七、ママ
「だからお前は馬鹿なんだ。
現実でこんな台詞吐く奴いねえよ!」
翌々日の昼休みに佳は玄の教室を訪れていた。
昼休みには隣の席の者がいつも別のところで昼食をとっているので、そこの椅子に佳は大きな尻を置いている。
佳の指さした紙束の上のセリフには赤ペンの丸でぐるぐる何度も囲われていた。
「いや、だから、実際の世の中の台詞と小説世界のリアリティにおける台詞回しとは違うんだって。
読者との共通理解の上に台詞ってのは成り立つんであって、そこに現実との比較を持ち出されたら」
「何言ってんのかいまいちよくわかんねえけど、その共通理解ってのがあたしとの間にはないってことだよな。
試しにここで読み上げてみようかこの台詞をよ」
「……はいそうですごめんなさい」
確かにその通りだと思った。
佳の言うことはいちいち納得させられることばかりで、反論しようにも自分のほうに穴があるのが見つけられてしまうばかりでまったく言い返せない。
台詞回し、地の文の書きかた、心理の流れなど、小説を構成する要素に自分なりの意見がしっかりとあるらしく、言葉はきついけれども納得はさせられることばかりだった。
しかし一体どういう心境で再び自作を読んでくれることになったのか玄には見当もつかない。女心なのかそれとも佳に特有の心の動きなのかいまいち判別がつかない。
佳の気持ちがわからなくはあるが、それでも自分の小説をここまで熱心に読み込んでくれる読者の出現に玄は浮き立っていた。公平はここまで読み込んではくれない。せいぜい、今回は良かった、今回は悪かった、程度である。それでも嬉しくはあるし、感想とはそうあるべきなのかもしれないが。
「大迫さんってひょっとして読書好き?」
会話の切れ目に放り込んでみた。特に何ということのない質問である。
「何だよ悪いかよ」
憮然としつつそれでも恥ずかし気に佳は睨みつけてきた。怖い。
怖くはあるのだが、それでも、
「いや、小説の自分なりの読みかた持ってるみたいな感じだから、読むのが好きなんかなって」
「別に『自分なりの読みかた』なんてもんは持っちゃいねえけどよ、まあ、あれだ。あたしもむかし身体が弱くって、家で読書かゲームかだったから、自然とな」
照れくさそうにサンドウィッチを口にしている。
「何にしたって、この台詞はないわ。
肝心のシーンでこれやられて、ギャグで言ってんのか真剣なのかわかんなかったもん」
「そこまでですか」
「そこまでです」
珍しく敬語で返してくれた。微笑みのおまけつきで、危うく惹かれそうになった。黙っていれば美少女とはよく聞く言い回しではあるが、それがよくあてはまる人物にはじめて出会った。
しかしながら佳はすぐに睨みつけてきて、
「なに黙ってんの。
次めくれよ」
「ああ、うん」
慌てて自作の次ページをめくる。
「ここのシーンのおかしいとこはよ、主人公が最初に黙る決意をしたってのに、それを破る決意をするまでの流れがまったく見えてこないってことでよ。
どうしていきなりこんなに心変わりしたんよ?」
「それは、前に情感たっぷりに書かないほうが良いって言うから……」
「書いてなきゃわかんないことは書けよ。それくらいの判断はしろよ。
何ていうの? 抑揚? ってやつだよ。抑えるシーンと盛り上がるシーンの使い分けっていうかよ」
「ちょっと待って、それ赤ペンでそこに書いておいて」
「あん? しかたねえな」
佳は持ってきていたペンケースから赤ペンを取り出して、先ほどの説明をかいつまんで書き込む。
そのとき、公平が教室に顔をのぞかせた。
「あ、いや、戻るわ」
そう言って公平は立ち去った。玄は片手を上げて応じた。
佳がそれを見ていて、
「あいつと仲良いんだったな」
「うん。額田は友達だけど。
僕の小説の数少ない読者でもあるし」
「ハアン。
よく仲良くできるもんだな、あれと」
佳は背もたれに背中を圧しつけて椅子を斜め後ろに傾げさせた。ギイと重みで音が鳴る。それは尻の重みのせいか胸の重みのせいかと想像してしまう。そんなことを考えていることが見抜かれれば怒られかねないので慌てて頭から振り払う。
しかしながら、佳の言いぐさはどういうことだろう。
「何だよ?」
つい睨みつけてしまう。佳相手にそのようなことをすれば後がわからないというのに。
「いや別に。
ていうか、お前、母親のこと『ママ』って呼んでんだったよな」
その発言に、周囲の者が何人かプークスクスと笑いだす。
「志水、ママって呼んでるんだってさ」
という声が聞こえてくる。そろそろクラスに居場所がなくなりつつある。
「ちょ、ちょっと、それをいま言う?」
「いま言うんだよ。
あいつが、あたしにそれを教えてくれたんだからな」