鱗と水槽
この世界に完璧な人間はいるか。もちろんだとも。僕とはとても遠いどこかに。
窓ガラス越しの外は真っ暗。月明かりも雲のせいで見えないや。きっと月は恥ずかしがり屋なんだ、きっとそうに違いない。なんて。
デジタル時計が上目遣いで目を丸くしている。
液晶の隅っこからこっそりと月が覗いている。
ドキドキと心臓が張り切り始める。
ああ日曜日が終わったんだ。
僕だけの世界が広がるこの家でつまはじきの生活がまた始まる。ああ、もううんざり。
いやいやこの気持ちは取っておこう、手放すのは簡単だから。しかし何もかも捨てて逃げられればどれだけ楽だろうか。
いっそのこと僕も。
台所にあるじゃないか。
手を伸ばせば届く、聞き慣れた誘惑が頭に籠もって抜け出せない。
なんて。
指をゆっくり口に運ぶ。歯茎をねっとりと人差し指でなぞる。歯の裏から舌で合わせてなぞる。可愛い起伏に気持ちを和ませる。
指先の腹に嫌な感触。親指で蓋をしてしまおう。
さっき食べたプリンの臭いの唾液。鼻に近づけて何度も確かめる。
「なにやってんだろ」
ため息を合図に立ち上がる。運ぶ足は台所へ。
視線はぎこちなく引きつけられる。うなだれる様にスタンドの隙間から睨む包丁。
どうやるんだっけ、別に本気じゃないけど。
手首に刃を立てて鶏肉と一緒で引いて切るのかな。それからお風呂につけて待つんだっけ。もしそうなったらどんな気持ちで待ってるんだろ。
他人事っていうか、そこまでするのが面倒くさい。自分の気持ち悪さに痒くなる。
手を洗いコップに蛇口を差し出す。
じゃーっと八分目。揺れる水面は不安定で微笑みが漏れた。
これ、蛇口が吐き出したんだよな。気持ち悪い想像を振り払い口に含む。控えめにカラカラと喉を洗う。吐き出す時に思い出して少し嘔吐く。
カラフルな歯磨き粉達がチューブの入場口から歯ブラシの上に踊り出す。
シャコシャコと小気味良く歯を磨くこの時間が僕は好きだ。何も考えなくていいし、鏡で僕が動いているのがなんかおかしい。
楽しい睨めっこを終えて部屋に戻る。
そこは沈黙という重苦しい音楽で満ちていた。空気に油が浮いている様で喉がタンを準備している。
きゅっと目を結び胸をなでる。呼吸を整えて定位置につく。
胡座をかいた僕にベッドはミシリと応える。いつも通り口下手なやつだ。
何をしよう。時間はいっぱいあるのだから。
それからは空白だ。頭は空っぽのまま自問自答や思案にふける。
何の役にもたたないというのに。
デジタル時計は目をしばしばさせて朝を知らせてくれる。窓ガラス越しに外は青くてどこまでも遠く感じた。
鳥たちが朝だ朝だと騒ぎ立てる。それもしつこく溌剌に。空気が緩む、人々が目覚める合図だ。澄みきったキャンバスに車達の騒音や近所の老人が図々しく描いていく。
何勝手に不愉快になってんだよ。
余白には子供達の賑やかがのん気に居座ってくる。心が震えるのがはっきりと分かった。
今何時だろ? もういいかな?
上目遣いで目を合わせる。
8時半、デジタル時計は僕と眠りにつく。
そう、僕は不登校だ。