49.目玉
目玉
研究所を包囲していた鳥や獣が全て消え去った後、国境警備隊の隊員がようやく口を開いた。
「隊長、我々は夢でも見ていたのでしょうか?」
「ああ、そのようだ。ソムテルは何事もない」
「誰かここへやってきます」
丘からすベり降りるように二人乗りのスノーモービルが近づいてきて、彼らの側に停止した。飛び降りた趙は真っ先に隊長に尋ねた。
「研究所は無事でしょうか?」
隊長は少し腹立たしげにこう言い放った。
「まったく、人騒がせな通報だ。研究所の周りに動物の大群が押し寄せてきただと、駆けつけてみれば何のことはない、鹿一匹もいないなんてな。おまけに要請したドローンは吹雪で墜落するし、俺が結局高い始末書を書くことになっちまった……」
先刻の出来事は不思議なことに彼の頭からはすっかり消えていた。
「急いで、雪上戦車に連絡しておけ、俺にこれ以上始末書は書かせるなよ。ところであなたたちは研究所の方か?」
隊員に指示を済ますと彼は二人に向き直った。
「副所長の趙と言います、これは娘のサランチムグ」
「サラです。日高所長は昨日の「ジーザス・システム」の実験データを日本に持って行き留守です。よければ研究所に来られますか、わざわざ来ていただいたお礼にお茶くらい出しますよ」
サラがいたずらっぽくそう言った。
「いえ結構、勤務中ですからね。おい、連絡したのなら帰るぞ」
隊長の合図で5台のスノーモービルは順にソムテルの研究所に背を向けて走り去った。趙は彼らが見えなくなると早速スノーモービルのエンジンをかけた。跨るサラにこう告げた。
「サラ、父さんは少し気になることがあるんだ。研究所に入るぞ」
「ええ、私も用事があるの」
研究所のセキュリティ・システムに異常はない。外部からの侵入者は見当たらない。所内に入ると、趙は早速屋外モニターをチェックした。それは北極圏の生き物たちが集まってくる様子を映し出すばかりだった。二人は研究所に入ってから、ずっと異様な感じを覚えていた。日高の部屋のドアが少し空いている、二人は目配せをしてその部屋に近づいた。
「何か、いる……」
趙がノブに手をかけ、そのドアをゆっくり引いた。白い影が足元を走りぬけ、外に飛び出していった。長い尾の「オコジョ」だった。彼の足元をオコジョがかいくぐる時に「むせぶような匂い」が二人を包んだ、しかしそれは一瞬で消えた。部屋を見回し、彼は例のものを探した。しかしその部屋に彼の探し物はありそうもなかった。
「思った通りだ、あの黒い鳥は私が拾ったイヌワシに違いない……」
彼が気にかけていたのは、実験に巻き込まれたイヌワシの死体だ。ガラステーブルに置かれていたはずのそれは影も形もなかった。テーブルの下の床からサラが何かを見つけた。
「父さん、こんなものが落ちていたわ」
彼女が拾い上げたのは鳥の羽だ、イヌワシのものに違いない。
「あのイヌワシはこの部屋で生き返り、変異してアルケオプテリクスに変わってしまった……」
彼は気づいていない、研究所から飛び上がった鳥のくちばしに、びっしりと生えた歯を肉眼で確認できたことが、いかに人間離れしているのかということに。そして「オコジョ」が放ったわずかな「ルナティ86(エイトシックス)」の残り香を二人が嗅ぎ分けられたのは、今も二人のミトコンドリアに残っている「シード」が作った記憶のシナプスが目覚めようとしていることに。
「お前たちは、アルケオプテリクスを知っているのか……」
書棚の上の隙間から、光る目玉が二人にそう話しかけた。知っているどころではない、彼は「変異細胞」により「アルケオブテクリス」そのものになり、シード・モンスターと戦った経験があるのだ。しかしそれは綺麗に消去されていた記憶だ、今日までは。




