縁
どうぞお手柔らかに。
ニヒリスト、つまり虚無主義者の私としては、これほどにおあつらえ向きの力もなかなか珍しいと思う。
最初この力を行使した時は、えも言われぬ悦楽を覚えた。何もかもを無に帰すこの快感とそれに対するこの達成感。元々そうだったかもしれないが、この時、全てがどうでもよくなった。何故なら、私が神から授かったのであろうこの力を少し振るえば、何もかもの因果を断ち切り、それに関する何もかもを、それを含めて、無くせるからだ。
そう、無くす。存在を、有を、奪うのだ。そこにある科学的根拠も、倫理的観念も、道徳的常識も、自然的摂理も、全てを無視して、あるべきものすらも、奪って無くせるのだ。どう足掻こうと、いずれ全ての記憶や記録から消え、どうせ無かったことになるのだ。それならば、今ここで無くそうと、それは同じことだろう。ただ、それが早いか遅いか、それだけの違いでしかなく、それすらも、時間という概念すらも、観測者がいなければ無意味なものとなる。だからこそ、私は全てを無くし、そして私すらも無くす。それが私の、将来の夢だ。
……という旨の話をしても、私信濃咲の狂的に真剣な話に、友人は同じく真剣に頷いていた。果たして私の話の全貌を理解できた様子は皆無だが、真面目に傾聴されると、なんだか拍子抜けした気分になる。私と、私の話がまともではないのは、重々承知しているつもりだ。だから、普通は、もっと違う反応が返ってきてもおかしくはないはずなのだ。しかし、目の前の少女越後心は、話が終わったにも関わらずまだ頷いている。馬鹿だからだろうか。なら仕方ないのかもしれない。
「なぁ、いつまで頷いてんだよ」
呆れ半分にそう言ってデコピンをかましてやる。
「うわぁ! ごめんごめん、話がよく分かんなかったからオートモードに切り替えちゃってたよ」
「何言ってんのかこっちも分からねぇが、とりあえず脳の一部でも無くせば、そんな相槌打つだけのアホくせぇ機能は無くなるよな? なぁ?」
そもそも、私がこんな面白くもない話をする破目になったのは、昼食中に「ねぇねぇ咲ちゃんのお話聞かせてよー!」と言われたからである。当初はつれない態度で黙殺していたが、あまりにもしつこく、また煩わしいので、仕方なく話してやったのである。初めの方は興味深そうに聞いていたが、時間が経つにつれて段々定期的に頷くようになり、そしてこの有様であったが。心底後悔している。私はこの少女とは違うから(いずれ無くなるという点においては同じだが)、私の崇高にして偉大な野望は理解に苦しむのかもしれない。仕方ないだろう。
「言っとくけどさっきの話は、嘘でもなんでもねぇ、正真正銘の事実だ。かといってそこらじゅうに触れ回られても、余計な敵を増やすだけでなんの得もねぇから、誰かに話なんかすんなよ。もしも話したら、無くしてやる」
念押しと脅しをしてみたが、もう心はこちらの話など聞いておらず「じゃあお礼にわたしの話も聞かせてあげるねー」などとにこにこしながら、興味などありもしない身の上話を始めていた。まぁ彼女は馬鹿だし、誰かしらに話しても信じられることはないだろうが、馬鹿故に嘘をつくのが下手だという危険性もある。やはり、話してよかったのだろうか、と懊悩するが、それもやめた。どうせ何かあれば、何もかも無くしてしまえばいいのだ。世の中、諦めが肝心である。万が一広まれば、広まった分、その余剰分、或いは過剰分、無くしてしまおう。
心はまだ話していたが、それを無いかのように扱い、空になった皿をトレイごと返却口に持って行った。そして予鈴が鳴り、生徒達は各々の教室に戻って行く。
――この時はまだ、本当に全てを無くすことになろうとは、露ほども知る由はなかったのだ。
その日の放課後、私はいつものように教室に残って窓からの景色を眺めていた。赤々と、赫々と、部活動に勤しむ生徒達を照らす夕陽。素晴らしく美しいこの世界を、私は眺めるのが好きだ。そして、妄想に耽るのだ。いつか、この世界を、無くせる日を。時間をかけて創っても、崩れるのは一瞬だ。積み木のように、儚く崩れ落ちる。何かを台無しにするのは、とてつもなく、楽しい。それは、誰しもが持っている感情だ。その対象が、自分とは違う、ちっぽけなものなら尚更のことだ。例えば、蟻の巣に砂を入れて埋めただなんて経験、誰しもあるはずだ。その悦楽が、私の原動力である。私の無くす力は生憎、その因果が強く絡み合っていればいるほど、難しく、もしくは不可能になる。逆に、因果が弱ければ、何の感触も無く、あっさりと無くなるのだ。その虚無感が私を満たしたとき、愉悦が脳髄を駆け巡る。万物は、無くなる為にあるのだ。私が虚無で満足する為、ただ無くされるのを待っているのだ。だから私は全てを無駄にする為に、全てを無くすほどの力を得るべく、徒に腐心しているのだ。そしてその努力という経過を、無くなるという結果に無に帰したいのだ。盈虚の差を、これでもかと味わいたいのだ。
「……やれやれ、私ほどのギャップフェチもそうそういやしねぇよ、なぁ?」
誰にともなく独り言を漏らし、席を立つ。教室を出るついでに、教室の後ろに飾ってある花を一輪、無くしてみる。ふっ、と音も無く、一切の視覚的な痕跡も無く、名も知れぬ花は無くなった。なに、数輪あるから、少しくらい無くなったってばれやしないだろう。積極的に花の世話をしている生徒もいないだろうし。もし誰かに咎められれば、そいつら諸共無くせばいいのだ。それだけのことだ。そんなことよりも、花如き些末なもののことよりも、私の偉大にして空虚な力の方が、どうでもいいくらいに重要だろう。満足感と虚無感を覚えながら、私は陶然と帰路に着く。そう、陶酔しているのだ。無駄に地道な努力を積んで、何もかもを台無しに無くしてしまう日が、何よりも待ち遠しいのだ。
『旅立ちの日に』の鼻歌なぞ奏でながら、信濃の表札の家に帰り着く。愛しき我が家にはまだ誰もいない。両親が離婚して母の方に付いて来たが、母の再婚相手が煩わしかったので無くした。何かを無くすと、それまでの因果、関係や繋がり、絆といったものによって、私の疲労度も変わる。もしくは、その一部しか無くせなくなる。赤の他人などどうでもよかったが、だからこそ頑張って無くした。母は働きながら私を女手一つで育てることになり、さぞ辛いだろうが、どうせ何もかも無くなるのだから、少しの辛抱だ。我慢していれば、いずれ何でも全て無くなるのだから。
自室に入ると、相変わらず、物の少ない部屋だと思う。無くす力を得てから、暇潰しにと私物を無くしすぎたのだ。必要最低限の物はまだ残っているが、それらもいつ無くなるか分かったものではない。早いうちに、物が無くて困る前に、全てを無くしてしまわなければ。誰に任された使命でもなく、誰に負わされた義務でもなく、ただ自発的な欲求として、無を望む。これ以上自分の物を無くすのも憚られるし、親の物を無くしてもつまらないし、とりあえず、外に出て何かしらを探すことにした。自宅から十分ほど歩いただろうか、黄昏時なのもあってか人っ子一人いない児童公園に逢着した。あまり大それた物を無くすのは、私の理念に反するし、何より社会の秩序を乱しかねないので、無への欲望を抑圧しているのが常である。そして今回も、そのつもりである。まずは、砂場に放置された小さな砂山に眼をやった。トンネルが掘られているから、この辺りの子どもが作ったものなのだろう。私はそれを、なんの躊躇も感慨もなく、無くした。虚しさが胸を満たし、全身に染み渡る。続いて公園を囲む茂みに眼を向ける。まんべんなく、葉の一部をそれぞれ無くしてみた。なんの達成感もなく、ただつまらない結果が伴うのみ。それが、やめられないのだ。あまり無くしすぎるといけないので、ここはこれくらいにして、次の場所に向かうことにした。その次の場所とやらがどこなのか、私自身にも分からなかったが、行く先で碌でもないことをするのは眼に見えていた。
その後、なんとなくふらふら彷徨っていたら、同じ場所を何回か歩いていたりしたが、やがてコンビニを見つけて入店する。人道に反した行いであろうが、まぁ、別にいいだろう。そう思いながら陳列棚を眺める。巷で人気なのであろうファッション雑誌が目に留まったのでそれを無くす。いつもなら何事も無いのだが、どうやら今回は巡り合わせが悪かったらしく、それを目撃した客がいた。目を瞠り、辺りを見回している。幸い私のことには気付いていないようだが、面倒事が起こる前に遁走を決め込むことにした。
やはり、いつまでもばれずに無くし続けるというのは難しかったようだ。何であれ、事はいずれ露見するものなのだ。そう考えを巡らせながら、速歩きに歩いていると、段々街灯が少なくなり、それに比例して元々少なかった人通りも更に減っていく。周りの景色も見ずに歩くと、徐々に家から離れる。そろそろ帰ろうかと踵を返そうとした時、ふとこの辺りが見憶えのある場所だということに気付いた。そして色々と、碌でもないことを思いつく。思い立ったが仏滅、悪は急げ、だ。そして足取りは軽く、速く、目的地へとただ歩むのだった。
「なんだ、このような時間に突然訪ねて来たかと思えば、相も変わらず憎々しい表情をして。貴様の顔を見ただけで吐き気がするわ、こちらに近付くな」
「まぁそう言うなよ、つれねぇなぁ」
わざわざ遠方から足を運んで会いに来てやったのだというのに、まったく、この嫌われようは一体何なのだろう。私はなんの躊躇いなく彼に歩み寄り、頭のふさふさした耳に触れようと手を伸ばす。私の手がその獣耳に触れる前に、彼の細腕によってそれは阻まれたが。同時に、右腕が勢いよく後ろへ弾かれる。彼の何かしらの力が、私に何かしらの作用を齎したのだろう。私は、大人が子どもに声をかけるように、優しげな声色を使った。
「おいおい、いくらなんでも、これは傷付くなぁ。折角私が再会のスキンシップをしてやろうってのに、この仕打ちはねぇだろ、なぁ?」
私を強く拒絶し、未だ敵対の眼を向けるのは、老爺のような言葉遣いで、外見年齢十ばかりの、まだ歳若い少年だった。ただの少年ではない。頭には黄金の毛で覆われた三角形の耳、臀部からは同色のふさふさした尻尾が生えている。高眉というのだろうか、黒い円の眉がチャームポイントである。服装は、よく分からないが、平安時代の皇子が着ていたような、そんな装束を身に纏っている。烏帽子をかぶり檜扇を手にしていて、どうやらこのなりでも元服は済ませているらしいことが窺える。といっても、いつ終えたのかは判然としないが。何せ、
「稲荷の神である余に馴れ馴れしい所作は許さん。分を弁えぬのも大概にせよ、人間」
何百、或いは千年生きているような神様に、そんな昔のことを訊いても、耄碌して憶えていないのであろうから。
「なぁ、蒼。そうやって人との距離を置くなよ。私が友好的な態度でいるんだから、それ相応の云為で返してもバチは当たんねぇだろ? そもそも、神様にバチが当たんのかどうかなんて知らねぇがな」
私は彼を蒼、と呼んだ。それが彼の名であるらしい。出雲蒼、私に教えられたそれが本当の名なのかは分からないが、どうせ訊いても答えないだろうし、疑っても仕方ないので、諦めて蒼と呼んでいるのだ。猜疑心に任せて無闇やたらと穿鑿しても、得られるものがその労力に相当するとは限らない。
「阿呆が。貴様が信用に足る人間であるのならば、とっくの昔にそうしている。未だ貴様が油断ならんから、こうして警戒せねばならんのだ。因果応報と知れ、この下郎めが」
「やれやれ、取り付く島もねぇ、って感じだな」
肩を竦めニヒルに笑みを浮かべる。私は普通にニヒルで、私は常にニヒリズムで、私は必然的にニヒリストだ。それでいい。
初めて私が蒼と出会ったのは、蒼に遭ったのは、私が力を得たばかりで、濫用に耽っていた頃だった。無くすことに溺れていたのだ。その耽溺しきった私を、蒼は殺そうとした。突如現れ、一切の問答を省いて殺そうとだけしてきた。それでも私が今こうして生きて、蒼と仲睦まじく談笑に興じていられるのは、私がその窮地を脱したからに他ならない。というのも、どうやら蒼は、神といっても直接鉄槌を下せるような力は持っていないらしく、日常に転がる蓋然を必然に変えて死なそうとするしか手がなかったそうなのだ。得体の知れない不可視で不可思議の力なら、私の力が効くのかどうかは分からないが、物理的なものなら朝飯前だ。反応さえできれば大体のものは瞬く間に無くせる。実に呆気なく、虚無感だけを引き連れて、私は生存したのだ。さすがに疲労が色濃く私を蝕んだが、それは相手も同じだったらしく、結果は引き分けというわけだ。その日は無事逃げおおせた私だったが、翌日はそうはいかなかった。このお稲荷様、何故かやたらと好戦的で、段々私の隙を突いて殺そうとするようになってきた。昨日の敵は今日の友、なんて言葉は嘘っぱちであることを証明するかのように、容赦ない殺意が私の背筋を舐め上げた。脇腹を軽く抉られながらも、辛うじて迎撃に成功したのが二日目だった。ちなみに私のこの力、怪我を無くすことはできない。何故なら怪我とは、皮膚や肉、血管などの細胞が一部無くなることなのだから。無くなったことを無くすなんて、リバーシじゃあるまいし、できるわけがないのだ。私のこの力も、何でも融通が利く妙ちきりんな力ではなかった、ということだ。そういうわけで、私は疼痛を脇腹に抱えながら帰宅した。とりあえず消毒液をぶっかけて、清潔そうな包帯を腹に巻いて、応急処置を施した。おそらく傷痕は一生残るだろうが、まぁ、仕方ないだろう。そして来る三日目、私は蒼と和解した。紆余曲折あった末、と言いたいところだが、私が一方的に殺されようとしていただけなので、特筆するような事は何も無い。強いて言うならば、飽きて諦めた蒼が、中々やるではないか云々、と突然私を認めたというだけだ。そうした変遷を経て、今のこの良好な関係に至るというわけだ。
「そんな可愛い顔で怒ったって、余計可愛くなるだけだぜ? 愛でたくなるじゃねぇかこの野郎」
私は、蒼のあからさまな嫌悪にも動じることなく、平然と言葉を投げかけ続ける。ついでにその可愛らしい頭を撫でてやろうと手を伸ばしたら、射るような眼でこちらを睨んできたのでやめておいた。ここまで拒絶されても干渉しようと思えるのは、男子小学生が好きな女子を苛めるような感覚に酷似した状況が貴重だからだろうか。
「神を愚弄するのも大概にしておけよ。貴様は図に乗りすぎだ」
しかし当然ながら、蒼はそれをよしとしない。どれほど嫌われているのか気にならないでもないが、まぁ、どれだけ嫌われていようとも、仕方ないだろう。私に対する嫌悪の度合だけではない。蒼がその矮躯に秘める感情、思想、思考、いずれも私には読み取るのが困難なのである。それは嫌忌という蓑に覆われているからなのか、もしくは、蒼の神意がなしうる業だからなのか。それなら、蒼の深淵を覗くには、その蓑や神意を無くせばいいのだろうか。しかし、私の無くす力が神に通用するのか否かはまだ分からない。ここで試してみるのも一興かと思ったが、今回はそんな素敵な実験をする為に来たわけではない。如何なる時においても、最初の目的を見失ってはいけないのだ。
「そんなどうでもいいことは置いといて、だ。蒼。なんで私がここに来たかなんて、薄々は気付いてるんだろ? なぁ?」
閑話休題とばかりに、蒼の静かな激昂をどうでもいいと断じる。裏が読めないのに表を窺って態度を変えるなど、愚かしいにもほどがある。神様のご機嫌取りよりも、私の企みは重いのだ。命は鴻毛よりも、神の思し召しは私の悪巧みよりも、軽い。それはあくまで私の中の比重、価値基準だが。
「ちっ、貴様のその虚ろのような性質が嫌いなのだ。……勿論、勘付いてはおる。だが、あくまで勘付いた程度だ。詳しい事は何も分からぬ」
「あらあら、天下の稲荷蒼様が憎々しげに舌打ちなんぞしちゃってまぁ。愛しいねぇ。蒼ちゃんがどれだけ分かってるかは分からないから、全部言っちまおう。……それはつまり言うなれば、己の限界への挑戦、だよ。聞こえはいいがなんと、その本質は、その聞こえのままだ。かっけぇだろ? 詳しいことなんて何も無いさ。ただそれだけなんだから」
ちまちまと些末なものを無くすのはもう飽きた。だから、もっと大規模なものを無くそう。でもどれだけ無くせるのかは分からない。じゃあ調べてみよう。そういうことだ。それだけのことだ。
「…………」
蒼は眉根に皺を作ってこちらを睨んでいる。
「つまり、どこまで無くせるか試すから、それを見届けろ、と?」
「そーゆーこと。さすが蒼ちゃま、オツムが違うねぇ」
正解のご褒美に撫で撫でしてあげようとしたら、眼光が一層鋭くなったので自重した。
「まず手始めに、この神社を――ってそんなに睨むなよ、冗談だから。そうさな、最初の実験体は、あのコンビニにいた人全員にしよう。いや、キツいかな。じゃあ客全員無くして、閑古鳥を鳴かそう」
そうと決まれば、悪は急げである。蒼を一瞥して意気揚々と歩き出す。背後には蒼が、きっと随伴しているだろう。渋々ながらも、蒼は付き合ってくれるのだ。神様を連れるなんて、まるで神様に信仰されているようだ。本来の位相との違いに、口元が緩む。