87 ファンファーレ(最終話)
「それじゃ次の問題。町の通りで、棒の付いた飴を売っていたとするよ。そのお店では、食べ終わった棒を三本返すと、また一本、同じ飴をもらえるんだ。もしそのお店で棒付きの飴を十二本買ったら、全部で何本の飴を食べることができる?」
「――三かける二が六、三かける三が九、三かける四が十二……十二。なので四本、あめがもらえます。あ、でもそのうちの三本でまた一本あめがもらえるので、十二たす四たす一で、十七本です!」
「正解。――ユインは、本当に賢いね」
泉実は目を細め、いい子いい子と小さな頭を撫でてやった。
今は週に何日か、泉実はこうしてユインを部屋に招いて算数を教えている。
泉実の得意科目は物理と英語と数学だ。しかし物理に関しては、地球の環境下での法則がこちらでも通用するとは限らないため、この分野を教えるのは諦めた。英語は論外である。
ユインは飲み込みが早く、九九をマスターしてからは簡単な加減乗除を暗算でこなした。
将来が楽しみな子だ。
少し離れた場所では、今日はユインに付き添ってきたシェラネイアが、微笑ましげに我が子を見つめている。
ユインが王太子に立つことが決まり、同時に、その生母であるシェラネイアにも立后の話が持ち上がった。だが、自分に王后は務まらないとして本人が辞退したため、今回は立太子の儀のみ執り行われることになった。
――わたくしは、ただ、我が子の幸せを願うだけの女でございます――。
そう言って、ハディスの前で伏して固辞したと聞いては、泉実には何も言えなかった。
二人が館に帰っていったあと、それを見計らったようなタイミングでミリシナが部屋を訪ねてきた。
「ミリシナ様……」
「お邪魔いたします、イヅミ様。ああ、この宮には数年ぶりにまいりましたけど、あまり変わっておりませんのね」
普段なら私用で後宮を出ることのできない彼女が、泉実の部屋にやってこられたのには訳がある。
ミリシナは、今日を最後に王城を去るのだ。
泉実がそれを知ったのは、ほんの十日前――ハディスに連れられ、城の敷地内にある王族の墓地を初めて訪れた際のことだった。
『――ミリシナ様が城を出る!? どうしてですか、彼女には帰る家がなかったはずです』
『ミリシナは、北の離宮に移り住む』
『えっ……』
『前々から本人が申していた、自分も館が欲しいと。ちょうど離宮が空いたゆえ、父の代からの功労を認め特別に下賜することにした』
『でも……陛下はいいんですか? ミリシナ様は、陛下の恋人なんでしょう?』
『さて、そのような甘い恋情が介在していたであろうか。あれは、なかなかにしたたかだぞ。服やら宝石やら、毎回欠かさず要求をしてくるあたりな』
ハディスはミリシナとの関係を否定せず、今回、そろそろ城を出て第二の人生を謳歌したいという彼女の希望を聞き入れたのだと告げた。
第二の人生を謳歌したい。それは理由の一つとしてあるだろう。けれど、彼女がここを去る本当の理由は、多分違う。
シェラネイアが、ユインを連れて城に戻ってきたからだ。
前王の妃にしてハディスの愛妾。そんな自身の存在がシェラネイアたちに与える影響を、処世術に長けたミリシナが考えないはずがなかった。
「イヅミ様、そんな哀しげな顔をしないでくださいませ。わたくしはたまに城に帰ってまいります。こちらには夫と娘も眠っておりますから」
微笑みを見せ、ミリシナはドレスの両端を広げて身を屈めた。
「これからは少し離れた地で、イヅミ様のご多幸を願っております。また、お目にかかりましょう」
「……はい。ミリシナ様も、どうぞお元気で――」
貴女に、女神リザリーの加護があらんことを。
祈りを込め、泉実は最後にそう言葉を送る。
ミリシナは膝を折って礼を返し、静かに背を向けると、この日、泉実たちのもとを去っていった。
季節は穏やかに移り変わる。
十月の秋。王都デルファでは豊穣祭の初日を迎え、下の広場に詰めかけた群衆のざわめきが、ここ塔の上の部屋にも聞こえてくる。
「かつてないほどの人出ですよ」
小窓の脇に立つローエンが言った。
「そのほう、昨年もその場所から同じ台詞を申していたな」
「僕も今思いました」
「あ、いや……そうでしたでしょうか……」
ハディスに続いて泉実にまで突っ込まれ、普段どっしりと構えた大柄なローエンがまごつく姿に周囲から笑いが漏れる。
今年はこの場にダレスとシドも立ち会っていた。泉実がダレスを見るのは半年ぶりで、しばらくお会いしませんでしたねと挨拶したところ、王命がどうのと愚痴をこぼされた。妙に言葉を濁して言うので、察するにハディスに大量の仕事を押し付けられでもしたのだろうと、とりあえず労いの言葉をかけておいたのだが。
前回よりも明るい雰囲気の中、一つ残念に思うのは、四か月前に晴れて王太子となったユインがこの場にいないことだ。王室の規範により、成年前の王子女は国民への顔見せができないのだそうだ。
「早くみんなが揃うようになるといいですね……」
十七歳になったユインと、年を重ねたハディス。そこにもしかすると、今は不在の王后が並んで立っているかもしれない――。
そんな、まだ見ぬ未来に思いを馳せてつぶやくと、隣でハディスが小さく笑う気配がした。
リィンゴーン…… リィンゴーン……
午前十時。
部屋の正面の大窓が開かれ、左右に分かれた軍学隊がバルコニーに出た。
「では、まいるか」
「はい」
澄み切った青空に、ファンファーレが響き渡る。
一年ぶりの熱狂は、王都から遠く離れた地にも伝えられ、国内外で話題となった。
国民の前で変わらぬ威厳と存在感を示す、礼装のアルドラ王。その隣には、今年も紺の法衣に身を包んだリザリエルがいた。
そして集まった群衆に手を振るリザリエルの表情は、前の年よりも、晴れやかなものであったという。
<完>