86 アルドラの泉
泉実が城に戻った翌々日、暦は四月に替わった。
「――顔と首の傷は、すっかり癒えたようだな」
「はい。おかげさまで、見えない所にできた痣も、ほとんど分からないくらいになりました」
「そうか」
ハディスの私室で、こうして二人きりで会話をするのもしばらくぶりのことだった。
「それで、お話というのは……?」
「今後のことだが、当面そなたの警護を強化する」
泉実はわずかに表情を翳らせ、座る膝の上に視線を落とした。
誘拐の実行犯であるイザークたち三人は、いまだ捕まっていないと聞く。
「案ずるな。金で雇われていただけの残党が、今またそなたを狙ってくるとは考えにくい。ただ一応は警戒する必要がある。そなたは窮屈に感じるやもしれぬが、少しの間辛抱いたせ」
「はい……分かりました」
「それともう一つ。シェラネイアとユインが、この先も城に住むことになった」
泉実はぱっと顔を上げ、明るい表情を取り戻した。
「シェラネイア様たちが――そうですか……。あ、でしたら僕は、今の所を移ったほうがいいんでしょうか」
泉実は今も、現王の後宮である東翼で寝起きしている。
反対にシェラネイアは、ユインと共に、泉実の住居として改築された館を仮住まいとしていた。
「その必要はない。後宮の女は、子が七歳を迎えると館を一つ与えられる。ユインは今年六歳ゆえ少し早いが、このまま館に住まわせるに差し当たって問題はないだろう。あの二人も、今の環境に満足していると申している」
泉実とシェラネイアで住まいが本来と逆であるが、ハディスは今回も便宜を図ってくれたのだ。
泉実は感謝の念を抱くと共に、ハディスに言った。
「……こんなに良くしてもらって、僕はもしかしたら、ユイン王子より長生きするかもしれませんよ」
「ほう。頼もしいではないか」
「年を取ったみんなに、僕は相変わらず迷惑をかけてばかりいるかもしれない。それでも、いいですか」
ナバムでナイジェルと話をしたあの晩、自分は生涯この国に留まると決めた。
そんな泉実の決意を表す問いに、ハディスは口の端に浮かべていた笑みを収め、問いで返す。
「そなたがいつ周りに迷惑をかけた」
「色々とわがままを聞いてもらってます。それに、今回捕まった先でも、態度が生意気的なことを散々言われました」
「誘拐犯に食ってかかったか」
「いや……その」
食ってかかったどころか、ちょっと暴れたりもしたなどと言っていいものか。
「深谷泉実」
突然、完璧な日本語の発音でフルネームを呼ばれ、泉実はびくと顎を引いた。
「――であったな、そなたの氏名は。下の名に意味はあるのか」
泉実は一瞬きょとんとしたが、すぐに合点がいったように頷いた。
事件繋がりで、自分がバイアンに名字の由来を語ったことを思い出したのだろう。
「源泉の泉に、実り、という意味です」
「なるほど……あの難解な文字には、そのような意味があったのか」
「……はい?」
「そなたがザイルに出した手紙の署名だ。あのふた文字がそうではないのか」
「ああ! そうです、よく覚えてますね」
「記憶に残らぬ訳があるまい」
ハディスは吐息で笑い、「そなたに相応しい名だ」とつぶやきを漏らした。
え、という顔をした泉実に、ハディスは今度ははっきりと言った。
「この乾いた国土に潤いと実りをもたらす。まさしくその名の通りであろう。そなたは我が国、アルドラの泉だ」
――褒められた。
「他国にそなたを渡すつもりはないゆえ、安心して腰を落ち着けるがよい」
「――……」
望んでいた答えをもらったにも関わらず、なんだか照れくさくなった泉実は、返礼に代わる言葉を探した。
「ええと、陛下のお名前に意味はあるんですか」
「さあ、ないのではないか」
「……ないんですか?」
「昔からよくある名というだけだ」
……本当だろうか。
まあいい。あとでキリエにでも裏を取ってみよう。
少々お茶を濁された感はあるも、泉実は気を取り直して椅子から立つと、右手を差し出した。
「それじゃ今さらですけど、これからもよろしくお願いします」
と挨拶をしているのに、ハディスは座ったまま、差し出された手にただ視線を注いでいる。
「……握手の習慣って、この国にはないんでしたっけ」
「習慣はあるが、余はしたことがない」
「ええ!?」
思わず大げさに驚いてしまった。
しかし考えてみれば、この世界で王族と握手ができるのは同じ王族くらいだろう。これまでハディスが誰かと握手をする機会がなかったとしても、そんなにおかしいことではないのかもしれない。
「じゃあ、僕としましょう。初握手」
そこの店先までご一緒しましょう、くらいの気軽さで言い、泉実は再び右手を差し出した。
ハディスは口元を緩め、それから組んでいた足を解いて立ち上がると、泉実の手を強く握り返してきた。
泉実がちょっと痛いと思うくらいに。
ザイルで出会ってから八か月。二人は固い握手を交わし、互いを見て軽く笑う目をしたのだった。
ユインが世継ぎと定められ、正式に王太子に立ったのは、これより二か月後のことである。




