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83 名前


 軍の施設を発つ準備の途中、泉実はハディスからの伝令を受け、セネガとシドを伴い玄関ホールに足を運んだ。

 するとそこには数人の兵と軍服を着たハディス、そして彼らの前で姿勢を低くしている一人の人物――昨日あの谷で見た、老齢の男性の姿があった。

 バイアンと名乗ったその人物は、集落を束ねる長として、今回の件で改めて謝罪に来たのだと泉実に告げた。


「王族にも等しきお方に非道を働きましたこと、お詫びのしようもございません」


 バイアンは深く(こうべ)を垂れた。


「いえ、皆さんのせいではありませんし、僕はこの通り無事でしたから……」


 それよりも彼らの処分が気になる。泉実は伺うような眼差しをハディスに向けた。

 そんな無言の問いに答えるようにハディスは告げた。


「集落の男たちは、しばらく監視付きで労働に従事させることにした」


 泉実は小さく目を見張る。


「だが決して楽な仕事ではない。肉体を酷使するものや、中には兵も忌避するような内容のものも含まれる」


 それでも、与えられるのは人々に必要とされる真っ当な仕事である。これまでのように兵の目を恐れ、闇に隠れて行う必要はない。

 表社会に加わることで、周囲からの強い風当たりを受けることもあるだろう。それを乗り越えられるかどうかは、彼ら自身で解決すべきことだとハディスは語った。


「……ほかの人たちは、お咎めなしってことでいいんですね?」

「減刑の結果、そうなった」


 泉実はほっとした表情でバイアンを見る。

 バイアンは、そこで控えめに声を発した。


「そればかりか、残る家族にも最低限の生活を保障してくださるとのご温情を頂戴しました。住民を代表し、国王陛下と御使い様に伏して感謝いたしまする」


 深々と頭を下げるバイアンに、泉実は思い切った質問をした。


「皆さんは、今のままでいいんですか」


 いいも何も、彼ら自身でどうにかなる問題ではない。それは分かっている。分かっているが、直接確かめずにはいられなかった。


「……代々、あの谷に生まれ育った者は、よその土地で暮らす基盤を持ちませぬ。あのような実り少ない土地であっても、たとえ、谷の連中と世間に蔑まれようとも、我々は、そこでしか生きていけないのです」


 そんな人生に神も希望もありはしない。男たちはまともな稼業に就けず、やがて犯罪まがいの仕事を請け負い、そうして何とか家族を食べさせていくしかなかったのだ。

 バイアンがみなまで言わずとも、自ずと知れることだった。


『こんな谷深い場所じゃ、空も真上しか見ることができない。俺たちは世間どころか、天にも見放されているんだ』


 脳裏にイザークの言葉が甦る。


「……バイアンさん!」


 泉実は考えるより先に、辞去の礼をとる相手を呼び止めていた。


「は、何でございましょう……?」

「――僕の名字は、フカヤといいます。僕の生まれ育った国で、深い谷という意味です」


 バイアンの目がかすかに見開かれる。


「すみません、だからなんだと思われるかもしれませんが……僕がいた所では、谷は忌み嫌われる言葉ではありません。ただ、それを知ってもらいたくて……」


 言ってみたものの、泉実は自分でも何を伝えたいのかよく分からず、恥じ入るように視線を揺らした。


「……あなた様は、本当にお心が優しくていらっしゃる。谷の皆に、そう伝えましょう」


 バイアンは最後に、泉実たちに時間を取らせたことへの謝辞を述べ、やや遅い足取りで玄関に向かっていく。

 泉実はバイアンが扉の向こう側に消えたあとも、その後ろ姿を見送るように玄関を見つめて佇んでいた。




「昼過ぎにここを発つ。部屋に戻って支度(したく)をいたせ」


 すぐそばからハディスの声がかかる。

 泉実はハディスに向き直り、丁寧なお辞儀をした。


「……減刑の件、ありがとうございました」

「よい。このところ、そなたは頭を下げ過ぎだ」

「はい……すみません」


 そこでまた頭を下げる泉実を見て、ハディスと周りの者たちはわずかに苦笑めいた笑みを漏らす。そして同時に、天意が垣間見えた今回の事件を振り返り、様々に思いを巡らせたのだった。



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