78 窮地
「――小僧。まんまと逃げ出しておったか」
木の陰から現れたのは、イザークが引いた馬にまたがったガイゼルだった。その後ろに、あの寡黙な二人もいる。
「館のほうから煙が上がっていたゆえ、よもやと思い途中で引き返してみれば――あの役立たずどもめ、子供一人も見張れぬとは」
――しまった。
ガイゼルが館を発ったのは、今朝だったのか。
てっきりゆうべのうちにいなくなったものとばかり思っていた。まさか、まだ谷にいたとは――。
泉実は青ざめ、イザークを見た。
イザークは傍観するようにこちらを眺めて立っている。その後方から、二人組が一歩前に出た。
「捕らえよ!」
馬上から鋭い声が上がると同時に、泉実は後ろを向いて駆け出した。
足音はすぐに追ってきた。泉実は走りながら、低めの木が生い茂る場所を探してその下をくぐり抜けた。
普通に逃げては簡単に捕まってしまう。あえて通りにくい道のほうが、大柄な彼らの追跡を振り切れると思ったのだ。
その作戦が功を奏したのか、追ってくる足音は次第に遠くなっていった。
しかし息つく暇もなく、前方から新たに男が二人現れた。
「いたぞ! あのガキだ」
館にいた手下たちだった。自分が脱走したことに気づき、付近を探索していたのだろう。
片方の男が、ピイィと指笛を吹いた。他の仲間を呼んだのだった。
泉実は左右を見て、より鬱蒼としているほうに逃げ込んだ。四方から伸びる枝葉を両手でかき分け、とにかく必死に前へ進む。
すると急に視界が開け、下の平地に大きな川が流れる光景が目に飛び込んできた。
慌てて止まろうとするも、踏み出した片足が斜面に滑り、ずるりと体が下がった。
「……っ……!!」
傾斜を転がり落ち、その勢いで川の手前までごろごろと転がった。
集まった男たちが続々と斜面を降りてくる。
泉実は急いで立ち上がろうとしたが、背中に走った痛みに顔をしかめ、両手を地面についた。
背中だけではない。全身が痛かった。体力ももう限界に達している。
それでも何とか前に進もうとして、またがくりと膝を折る。
追っ手は、すでに目の前に来ていた。
「もう逃げられないぜ」
男たちが泉実を取り囲む。
「随分となめた真似してくれたじゃねえか、ああ?」
正面に立つ男は片足をダンと踏み鳴らすと、泉実の首の後ろを掴んで乱暴に膝立ちにさせた。
泉実は抗う気力もなく、ただ、されるがままでいた。
――ここまできて、駄目だった。
眦に涙が滲む。
それは、生まれて初めての悔し涙だった。
「全員動くな!」
突如、頭上に声が響いた。
ガイゼルの手下たちは一斉に声のしたほうを見上げ、驚愕の表情で固まった。
太陽の方向の下、せり出した崖の上にざっと二十人以上が立ち並び、こちらに矢をつがえていた。
泉実もまた茫然とした。
兵士の集団のように見えるが、彼らが身に着けている装備や服装は、見知った王都軍のものではない。
敵か味方か、それともまた別の勢力か――。
すると崖に程近い斜面から、今度は見覚えのある戦闘服姿の兵士が大勢滑り降りてきた。
その中の、先陣を切ってこちらに駆けてくる短髪の兵士。あれは――。
「――シド!」
「イヅミ様!!」
シドは走りながら剣を抜き、泉実を取り囲む男たちを薙ぎ払った。
そのまま戦闘態勢に入るシドに少し遅れ、駆けつけた味方の兵士たちが入れ替わりに泉実の周りを囲む。
「イヅミ様、お怪我は!?」
「お立ちになれますか」
矢継ぎ早に声をかけてきたのは、ローエンとセネガだった。
――みんな、来てくれた……。
泉実はかけられた言葉に首を横や縦に振り、差し出された手を借りてようやく立ち上がることができた。
絶望の淵からすくい上げられた――そう感じた瞬間だった。




