74 行動開始
泉実が本格的に焦りを感じ始めていた頃、ハディス率いる王都軍はドゥーリスの谷を目指し進軍していた。
『敵は、ナバムと南シーレーンの領境に広がる谷に潜伏している可能性が高い』
何度目かの作戦会議において、そう発言したのは誰あろうハディスであった。
そしてその場で出陣の命が下され、泉実の救出に向けて一団が城を発ったのが二日前のことだ。
「陛下、我々はもうすぐナバムの中心部に入ります」
「日没まで北上を続ける」
「はっ」
ハディスが先頭を進む集団から、後続の部隊に伝令が走る。
最後尾につく工兵軍まで指示が伝わると、その団長であるディランに、隣の馬上から副官が話しかけた。
「それにしても、陛下は今回の情報をどこから入手したのでしょう」
「――おそらく、王室の影を動かしたのだろう」
王室の影。それはアルドラ王家が古くより抱える、王の直下で諜報活動を行うとされる者たちのことだ。行うとされる、という言い方をするのは、彼らの存在は城でも公にされていないからである。
その人数や拠点等、『影』の実態は軍高官にも知らされておらず、またそれを王に問うこともしてはならないという不文律があった。
「……しかし谷の人間が関与しているとすれば厄介ですね。一般の民とは意識を異にする者たちです。イヅミ様が危害などを加えられていなければ良いのですが……」
「夜明けの一つ星はまだ出現していない。そうなる前に、我々は使命を果たすまでだ」
そうして前を向きながら話していた二人は、そこからは無言で馬を進めた。
◇◇◇
「おら朝メシを持ってきてやったぞ」
乱暴に扉が開き、また知らない男が部屋に入ってきた。
「おい坊主、いつまで寝てんだ。見かけによらず神経の図太てえガキだな。――おまえ、お館様にたてついたんだって? 素直に言うこと聞いてりゃもっといい扱いが受けられたってのによ、馬鹿な奴だぜ。にしても、よくそれらしいのを見つけてきたよなあ――」
泉実は話の途中でむくりと体を起こし、半眼状態で相手を眺めていた。
今度の男たちは、よくしゃべる。
ゆうべ食事を運んできた別の男も、下卑た笑いを浮かべながら盛んに口を動かしていた。
そして分かったのは、ガイゼルが引き連れてきたこの手下たちは、自分を本物のリザリエルとは思っていないということだ。
昨日と今日の二人を見ても、いかにもチンピラといった彼らは悪事に手慣れた様子である。こちらが本物と知ったところで怖じ気づくとも思えないが、ガイゼルからは『塔にいるのは偽のリザリエルに仕立てるために闇で買った子供だ』と聞かされているらしかった。
「一応言っておきますが、僕は本物のリザリエルですよ。少なくとも城ではそういう扱いをされています」
「ああ聞いてるぜ。はったりかまして大人に喧嘩売るのが得意なガキだってな。そんな態度のうちはこっから出してやんねえぞコラ」
その後も泉実を生意気だの何だのとこき下ろし、最後に「次来るまでにメシを食い終わってろよ」と言い捨てて、男はやっと出ていった。
泉実は椅子の上に置かれた食事をじっと見た。
盆に載っているのはいつもの丸いパンと、平皿によそられたスープという、これまでと変わらない内容だ。
ただし監視役が替わってから、パンの大きさは一回り小さくなり、スープからは具が消えてしまった。
これはガイゼルが指示した懲罰なのか、はたまた男たちの手抜きなのか――。
そんなことを思いながらベッドを降り、部屋の隅に置いてある瓶を手に取った。
――もったいないことして、すみません。
誰に対するでもなく心の中で謝ると、泉実は昨晩同様、平皿の中身をトポトポと瓶に注いでいった。
一時間後、再び部屋の前にやってきた男は扉の小窓に顔を近づけた。
「メシは食い終わったか……おい!」
男は室内を覗き込み声を上げた。
泉実は椅子の座面に顔を突っ伏し、床に膝をついた状態でぐったりとしていた。その足元には盆が落ち、皿やスプーンが散乱している。
「おいっ、どうしたんだ」
慌てて部屋に入り、男は泉実の肩を掴んで自分のほうに体を向かせた。
反対側にだらりと垂れた泉実の手は、しかし次の瞬間、床にあった盆を掴んだ。
そして閉じていたまぶたをぱちりと開き、泉実は盆の平面を、力いっぱい相手の顔面に叩きつけた。
「……ぅぶっ……!」
鈍い衝撃音と奇妙な呻き声がほぼ同時に響き、男が後ろ向きに倒れ込む。
その隙に泉実は付近のものを拾い上げ、入り口に駆け出した。
「待て! この野郎――」
男は鼻を押さえて立ち上がろうとするも、飛び散ったスープで床が濡れて足が滑り、今度は前につんのめった。
泉実が半開きの扉をすり抜ける。
そのあとを追い、よろけながら部屋の入り口に到達した時、階段からヒュンと盆が飛んできた。
それが額にクリーンヒットし、男の喉から、またもやおかしな呻きが漏れた。
続けざまに思わぬダメージを与えられ、戦意喪失したらしい男はもう泉実を追うことはせず、へたり込んだその場から声を張り上げた。
「――ガキが逃げたぞ!!」




