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69 小川

 泉実が谷に連れてこられる半刻前のこと。南シーレーン領の情報を待つハディスたちのもとに、予定よりも早く現地からの使者が到着した。

 総督が老体であることから、その補佐官が夜通し馬を駆って来たのだった。

 三十代なかばの補佐官は、王と軍高官らを前にやや緊張した様子を見せながら、現在領内において不穏な動きはないと報告したうえで、ある注意人物の名を挙げた。



「――領主の叔父だと」


 怒っている訳ではないのだろうが、妙に凄みのあるハディスの低い声に、補佐官は自分が叱責を受けたかに感じて、びくっと肩を上げた。


「は、はい。このガイゼル公ですが、利己的で下の者に対する振る舞いは横暴ときて、領民や家臣からの評判がすこぶる悪いのです。さらには、たびたび領主の屋敷を訪れては政務に口を出すなど、一族の間でも煙たがられている存在と聞いております」

「そのような輩を、なぜ領主は放置している」

「は、処罰に値する行為ではないため、如何(いかん)ともしがたいというのが正直なところではないかと……。領主も身内の恥を晒したくないのか、あちらから正式に相談を受けたことはありません。ただガイゼル公には禁制品の売買で不当な利益を得ているとの噂があり、これについては我々も内々に調査を進めておりました」


 しかし確たる証拠が掴めていないとの現状を伝え、補佐官は背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、王の次の言葉を待った。


「分かった。(なが)の移動でそのほうも疲れているであろう。下がって別室で休むがよい」

「――はっ」


 そこで意外にもあっさりと退室を許可され、ほっとした表情を浮かべた補佐官は一礼して部屋を出ていった。

 ちょうど窓の外で午後四時を告げる鐘が鳴り、ハディスは場に会する者たちを見渡して告げた。


「我々も一時解散とする。次に余が召集するまで、各自持ち場で指揮にあたれ」


 討議を再開するものと思っていた武官たちが顔を見合わせる中、ハディスもまた閣議の間をあとにした。



 隣室に控えていたキリエを伴い、いったん居住区に戻ったハディスは、一階のテラスを過ぎたあたりで足を止め、前を向いたまま短く声を発した。


「レスターを呼べ」


 キリエは何の疑問も抱かぬ様子で「かしこまりました」と頭を下げ、再び歩き出したハディスとは別の方向に向かっていった。



 ◇◇◇



 一夜明けた朝、泉実は館の裏に流れる小川でぱしゃぱしゃと水浴びをしていた。

 外の空気は涼しいのに、流れる川の水はぬるい。ということは近くに温泉があるのかもしれない――などと考えていたところへ、自分をこの川に突き落とした人物が戻ってきた。


「上がれ。着替えと体を拭くものを持ってきてやったぞ」


 布の(かたまり)をばさりと地面に放った相手を、泉実は水面から頭だけを出し、じっとりと睨んだ。


 それは三十分くらい前のことだ。

 泉実は早速、ゆうべ渡された鈴を活用した。

 程なくして部屋の前にやってきたのは、御者をしていた二人組のうちの一人だった。泉実は扉の覗き窓越しに、(たらい)に汲んだ湯と手拭(てぬぐ)いを持ってきてほしいと頼んだ。

 離宮を出てからもう何日も風呂に入っていない。いくら気候が涼しいとはいえ、これでは不衛生だ――等々、感情の乏しそうな相手に必死に訴えたのである。

 すると男は無言で下に降りて行き、次に階段を上がってきたのはリーダーの男だった。

 そして屋外に連れ出され、この川辺に着くなり服を脱げと言われた。

 その言葉に硬直していると、思い切り肩を押されて服のままドボン、というのが事の顛末だ。



「じゃあ上がりますから、後ろを向いててもらえませんか」

「おまえは女か? ――ああ、高潔な神子殿は、我々のような賎民(せんみん)の前で肌を晒せないか」


 そんなんじゃない、と泉実は喉まで出かかるも、相手がそこで背を向けたのを見て、ひとまず言葉を飲み込みそそくさと川べりに這い上がる。



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