65 集落
『エステラン語はこの大陸のほとんどの地域で通じるということですけど、通じない地域もあるんですか?』
ザイルで文字を習い始めて間もない頃、泉実は師であるメイゼンにそう訊いたことがあった。
『まったく通じないことはございませんが、一部の地域に、日常の言葉としてエステラン語を使用しない民がおります。古来の現地語を重んじる部族であったり、独自の文化を形成している者たちであったりと、その理由は様々です』
『エステル王が全土の統一を果たすまで、数多くの部族がこの地で領土争いをしてたんですよね』
『さようです。現在この大陸には八の王国がございますが、実はつい百年ほど前まで、国は九つございました。今は無き、その国の名は――――』
「おい」
頭上から声がかかり、夢うつつの中にいた泉実ははっとまぶたを開けた。
いつの間にか馬車は停止していた。後方の扉は開け放たれ、そこから射し込む夕日が黒フードの男を逆光で照らしている。
「降りろ。――と言っても、神子殿は動けないんだったな」
男は泉実の手首を掴んで扉のほうまで引きずると、やってきた仲間の男の肩に土嚢のごとく担がせた。
呼称はここにきて『坊主』から『神子殿』に格上げされたが、扱いは荷物同然である。もっとも、今朝の休憩の際もそうやって外に出されたので、まだ本調子でない泉実は今さら抵抗もせず、その男の肩の上でおとなしく折り曲がっていた。
誘拐犯は三人組だった。手綱を取っていた二人の大柄な男は共に白いフードをかぶっており、泉実の前ではほとんど口を開かない。
これまで泉実が観察したところ、どうやら、ずっと車内にいた黒フードの男がこの中でのリーダーのようだ。
二頭の馬が荷台から切り離され、縄を引かれてこちらにやってくる。
その一方の背に泉実を、もう一方には荷袋を乗せ、男たちは一列になって歩き出した。
「日が落ちる前に急ぐぞ」
泉実を乗せた馬の手綱を引きながら、黒フードの男が後ろにいる二人に告げた。
荷台のほうは、ここに置いていくらしい。
――目的地に着いたと思ってたのに、まだ先があるのか……。
馬の背に腹ばいに横たわり、泉実は小さく息を吐いた。
早く目的地に着きたいのではない。元の場所からどんどん遠ざかっていくことに、一層の不安を募らせたのだ。
鬱蒼と茂る木々の間を進んでいくうちに、彼らが荷台を捨てていった理由が分かった。そこからの道は狭く、時に上り下りの激しい状態が続き、これでは確かに馬車では進めない。この辺りは、人がほとんど足を踏み入れない未開の地のようだった。
そうして全員無言で一時間弱を歩いた頃、前方からサァーッという水の流れる音が聞こえてきた。川が近くにあるのだと泉実が悟った時、目の前が突然開け、正面に切り立った岩壁が出現した。
川は、自分たちが立っている場所の遥か下を流れていた。
幅十メートルほどの澄んだ川はS字に大きく蛇行し、途中からは崖に隠れ、両端の先が見えなくなっている。
ここは、渓谷だった。
日本にいた頃も含め、実際に渓谷を見るのが初めての泉実は、その絶景に息を呑む。
さらに目を見張るのは、上流にある狭い平地と傾斜面に、民家と思しき小屋がいくつも点在していることだ。
家は見える範囲でも十数軒ある。あんな崖に囲まれた谷あいに、人が集団で暮らしているのだ。
「あんな所に、人が……」
驚きに目を凝らし、泉実は思わず声に出してつぶやいた。
「――そうだ、あんな所にも人は住んでいる。宮殿に住む神子殿には、あの集落での暮らしぶりなど想像もつかないだろうがな」
隣の男は馬を止め、皮肉に口を歪めて泉実を見下ろした。
泉実もまた相手を仰ぎ見ながら、今の言い方からすると、この男はあそこに住む人間なのだろうかと考える。
「助けを叫んでも無駄だ。もっとも、ここから大声を出したところで聞こえやしないが」
そう言って男は再び綱を引き、細い岩肌の道に向かっていった。