61 震撼
薄曇りの午後、イルゼは泉実の部屋の清掃をしていた。寝室と居間の窓を開けて空気を入れ換え、汚れのないテーブルの上をそれでも綺麗に布で拭く。
いつ戻ってくるともしれない、泉実のために。
半年前、まだ見ぬリザリエルを城に迎えるにあたり、前の日は今のように様々な想いを抱きながら、念入りに室内を整えた。
不意にその日のことが思い出され、イルゼは作業の手を止め、主のいない部屋の中をそっと見回した。
「――やはりこちらでしたか、イルゼ殿」
扉が静かに開き、そこへキリエが姿を見せた。
「キリエ様……! 何か、進展があったのですか」
「あいにくとまだ何も……。解決までには、だいぶ時間がかかると予想されます。そこでイルゼ殿にも、いったん本館に部屋を移っていただきたく知らせに来ました」
泉実が来てからこの宮に詰めることになった者たちに、かつての持ち場に戻るよう指示が出たのだという。
ハディスは当面の間、東翼を立ち入り禁止にするつもりでいるのだ。
泉実の留守を預かる身としては辛い決定であったが、王の命となれば受け入れるしかない。イルゼは悲しげな顔で承知しましたと答え、その返事に頷いて出ていこうとするキリエに問いかけた。
「陛下のご様子は」
「――表面上、普段とお変わりありません」
かえって恐ろしいほどに……と、キリエもまた沈痛な面持ちでつぶやいた。
離宮に賊が侵入し、夜中のうちに泉実が連れ去られた。
その一報が城に飛び込んできたのは、事件のあった数時間後の明け方のことだった。
登城前の重臣たちに王の緊急の召集がかかり、朝早くから彼らが集まった閣議の間は、ハディスの口から伝えられた事態に騒然となった。
いったい誰が何の目的で、そんな大それた犯行をしたというのか。
アルドラ王国の歴史の中で、これまでも王族の命を狙う不逞の輩はいた。しかし泉実は大陸の創造主、女神リザリーから遣わされた存在なのだ。神の奇跡も天罰も迷信でないこの地において、そのような行為に及ぶ者がいるなど到底考えられないことであった。
もしも泉実の身に万が一のことがあれば――家臣たちは震撼した。
すぐに王都と近隣の領から捜索の兵が出されたが、犯人の有力な手がかりも泉実の消息も掴めないまま、事件から丸二日が過ぎようとしていた。
時間は少しさかのぼる。
泉実は、ガタゴトと揺れる床の上で意識を取り戻した。
そこは薄暗く狭い空間だった。四方を囲む板壁に、帆布を張った低い天井。そしてすぐそばで、黒いフードをかぶった見知らぬ人物が自分をじっと見下ろしていた。
こんな体験は前にもしたと思いながら、泉実は痛みの残る首の後ろを押さえ、のそりと上体を起こした。
目の前で片膝を立てて座っているのは、無精髭を生やした年齢不詳の男だ。こちらを品定めするような目つきはあの人買いの一味と似ているようで、どこか異質な、得体の知れない気味の悪さを感じさせた。
「随分と落ち着き払ってるな。それとも驚きで声も出せないか?」
嘲る口調の男の声は、存外若い。
「…………」
泉実は今の状況を理解していた。自分は離宮でこの男に拉致され、荷馬車でどこかに連れていかれようとしているのだ。
意識を失う前に見た光景が脳裏に甦り、泉実の表情は自然ときついものになる。
「……みんなに何をしたんですか」
「みんな――? ああ、兵の奴らか。そう睨むなよ、少しの間眠ってもらっただけだ」
「眠って……?」
「本当は坊主にもそうなってもらうはずだったんだがな。坊主にトリアンナの香が効かないのは誤算だった」
――廊下に充満していた、あの匂いか?
樹の薫りに人工的な香料を加えたような、癖のある匂いだった。自分は何ともなかったが、あれは、人の意識を奪うことができるのか。
人買いに捕まった時、馬車の中でぐったりしていた三人の娘に使われたのと、同じものなのかもしれない。
闇品の香……。
あの時エルマが口にしていた単語が頭に浮かんだ。
ともかく兵士たちは死んではいないのだ。
良かった……と泉実が安堵の吐息を漏らすと、それを見た男はフンと鼻を鳴らした。
「兵の心配より、自分の心配をしたらどうだ」
「……僕のことを知ってるんですか」
「リザリー教の神子だろう」
泉実は怪訝な顔をした。だいたい合っているものの、今までそんなふうに称されたことはない。
すると男は床の隅から黒い瓶を引き寄せ、注ぎ口にかぶせてあった木のコップに中身を注ぎ始めた。
「これを飲んでもらおうか」
そうして目の前にコップが突き出される。
その色と匂いで、泉実は中の液体が何であるか分かった。ハディスと二人だけの晩餐を取った次の日、今後の注意のためにと、グラスに注いだ状態のものをキリエに見せられていたからだ。
コップの中で揺れている黄金色のそれは、フラムの酒だった。




