55 寄り道
マデイラの部屋を出た泉実は、その足で下の階のミリシナの部屋に向かった。
マデイラとミリシナの二人は後宮の取りまとめ役にある。今はどちらかの部屋を訪れた際には、必ずもう一方の部屋にも立ち寄るようにしていた。
それは泉実がこの数か月の間に身につけた、妃たちに対する社交マナーの一つであった。
そうしてミリシナの部屋まで来ると、扉の脇に兵士が一人立っていた。
後宮の警備兵が、住人の部屋の前にまでいるのは珍しい。
「あの、ミリシナ様はいらっしゃいますか?」
「これはイヅミ様。はい、ミリシナ様は中にいらっしゃいますが、ただ今、陛下もご一緒でして……」
「陛下が?」
初めて後宮でかち合った。
気が向けば足を運ぶと言っていたのは、本当だったらしい。
しかし、それはつまりだ。
「あ。じゃあ、ご機嫌伺いに寄っただけなので、僕はこれで……」
「は、申し訳ございません。イヅミ様がお訪ねになられましたことは、のちほどお二方にお伝えいたしますので」
「いえ――……はい……」
別に伝えてくれなくていいのだが、職務上そういう訳にもいかないのだろう。
泉実は歯切れの悪い返事を残し、そそくさとその場を立ち去った。
――陛下が通う相手は、ミリシナ様だったのか……。
ミリシナがハディスの恋人……いや、この場合は愛妾になるのか? などと自問しながら、未亡人の彼女が、今も充分な色香を纏っている理由に泉実は納得する。
ミリシナはハディスの父の妃ではあるが、この国の後宮制度的には何の問題もない。
だが時刻は二十時の鐘が鳴ったばかりだった。
王が後宮に渡る時間としては、少し早くないだろうか。
――日帰りか?
日帰りという表現が適切かどうかは置いておき、ハディスはミリシナの部屋には泊まらず、自分の部屋に戻るつもりなのかもしれなかった。
案外このあとすぐ、ハディスが出てくることもありうる。
今ここで会うのは、ちょっと気まずい。
焦った泉実は、足早に玄関ホールへと向かった。
◇◇◇
自宮に戻ると、一階の階段近くで駆け下りてきたシドと出くわした。
「イヅミ様!」
「シド。どうしたの、なんか慌てて」
「イヅミ様をお探ししていたのです。ずっとお姿が見えなかったので……」
「後宮に行ってた。部屋を出る時、見張りの人にはそう伝えたんだけど」
泉実の言う見張りの人とは、自室の前に立っている警備兵のことだ。彼らは不審者の侵入を阻むことを任務としており、泉実が自発的に部屋を出るのは黙認している。
それはハディスが早い段階から、『リザリエルの行動をむやみに制限してはならぬ』と関係者に言い渡していたからであるが、泉実本人はそのことを知らないでいた。
「半刻ほど前に後宮に行きましたら、イヅミ様はすでにお帰りになったと言われました」
泉実は口を『あ』の形にして固まった。
そして視線だけを落ち着きなく泳がせ、見るからに言い訳を探している様子でいたが、やがて観念したように上目遣いでおずおずと告げた。
「……実は、ここに戻ってくる途中でレスターさんとばったり出会って、工房に見学に行ってたんだ」
「工房に!?」
泉実の予想通り、シドの顔が険しくなった。
シドがレスターを快く思っていないのは知っていたので、本当は黙っているつもりだったのだ。
「何も失礼なことをされませんでしたか」
「されないよ。デッサンとか試作品とか見せてもらって、お茶をご馳走になっただけ」
「でしたらよろしいのですが……。今後、宮からお出になる際は私をお連れください」
「分かった……心配させてごめん」
最近は一人で部屋を出ても何も言われなかったため、つい自由に行動してしまったのがいけなかった。
ずっと自分を探し回ってくれていたシドに申し訳なさを感じ、泉実は反省の色を浮かべ、そこからシドにぴったり付き添われて部屋に戻ったのだった。