10 統一王
失礼いたしますと言って入ってきたのは、初老の紳士だった。
そしてにこやかに、泉実に文字を教えるよう言い付かってきたと告げる。
「お初にお目にかかります。わたくしはシュリ様の教育係をしておりましたメイゼンと申します」
「こちらこそ……、お初にお目にかかります。深谷泉実と申します」
シュリと対面した時より丁寧な口調になってしまった泉実に、メイゼンは「そのように硬くならずとも良いのですよ」と微笑みながら着席を促した。
しかし、まさか王子の教育係を務めていたような人物が講師につくとは思ってもなく、泉実はやや緊張してテーブル席に着いた。
「シュリ様からは午前を学習の時間に充てるよう申し付かっておりますが、イヅミ様は問題ございませんかな?」
やっぱり『いずみ』の発音とアクセントが違うと思いながらも、顔には出さずに頷いてみせる。
「はい、もちろんです。あの、僕のことは様など付けずにお呼びください」
「ああ、これは癖のようなものですのでどうかお気になさらず」
さらりと返し、メイゼンは泉実に教材を差し出した。
――王子は僕のこと、なんて話したんだろう。
メイゼンがこちらを庶民と知っているのかが気になるところだが、シュリがどう説明しているか分からない以上、あえて身の上は明かさないほうがいいのかもしれない。
そう考えた泉実は多少の申し訳なさと気恥ずかしさを感じつつ、ひとまず神妙に教材を受け取った。
メイゼンははじめに、この大陸の共通語であるエステラン語の成り立ちについて話をした。
古の時代、西の大陸は多数の異なる部族が点在し、領土争いの絶えない土地であったという。
しかし二千年前、一人の若き王がその手腕によって大陸の統一を果たし、全土における共通語を普及させた。それがエステラン語である。
「その統一王の名はエステル。エステラン語は、伝説の王の名前に由来しているのです」
泉実は興味深く話を聞いている。
「我が国を含め、現在大陸には八の王国がありますが、ほとんどの民がこの共通語を使用します。文字も、国による大きな違いはありません」
メイゼンは手元の教本を開いた。
「では、まず身の回りのものから書き取りしてみましょう」
こうして、泉実の読み書きの練習が始まった。
◇◇◇
「メイゼンの授業はどう?」
長椅子に腰を下ろした泉実に、向かいに座るシュリが尋ねた。
その日の午後、泉実は初めてシュリの部屋を訪れていた。二時の鐘のあと、シュリが話があるとのことで、ルークにこの部屋まで案内されたのだった。
ちなみに、そのルークは今ここにはいない。
「とても丁寧で分かりやすい授業です。あんな偉いかたを紹介してもらえるとは思ってなくて……なんだか申し訳ないです」
「気にしなくていいよ。きみの教育係を担当したいと、自ら願い出てきたんだ。まったく鼻の利く……」
メイゼンは二年前まで、この城でシュリに世界史や民俗学などを教えていたとのことだ。その後は王都にある学術機関に籍を移したが、昨日ひょっこりシュリを訪ねてきたらしい。
昔から何もかも見通されていて、いたずらもすぐにばれたものだとシュリが独りごちるのを、泉実はなかば話を理解していない顔で聞いている。
するとシュリはいったん言葉を切り、泉実に静かな眼差しを向けて言った。
「きみは、こことは違う世界から来たんだね」
泉実の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。