01 記憶
その日は夜遅くまで、部屋のパソコンで調べものをしていた。
高校を卒業したばかりの深谷泉実は、来月から都内の大学に進学する。
名前で女性に間違われることもあるが、男子校出身だ。
第一志望だった国立大に合格した日、泉実はこれを機に一人暮らしをしたいと父親に相談した。
母親は、泉実が小学生の時に亡くなった。
その後父が再婚し、一回り年の離れた弟の伊織が生まれ、現在は両親と弟の四人で暮らしている。
新しい母は面倒見の良い人で、まだ幼い弟も泉実に懐いており、家族仲に問題はなかった。
だが、血の繋がらない母との同居というのは気を遣うものだ。
とくに最近は父が出張で家を空けることも多く、三人だけでの食事の時など、元々控えめな性格の泉実はさらに遠慮がちになってしまうのだった。
父は分かっていたようだ。
だから泉実が部屋を借りたいと言った時にも、家から通えるだろうなどと反対はしなかった。
ただ経済的な援助が増える分、母にも相談すると言った。
そして母もまた、泉実の胸裏を察していたのだろう。父からその話を伝え聞いた時、やや残念そうにしながらも、泉実の意思を尊重してくれたという。
こうして両親の承諾を得ることができ、今日もネットで一人暮らしに関する情報収集をしていた泉実は、ふと画面の右下に目をやった。
表示時刻は、午前一時になろうとしていた。
――寝る前に少しだけのつもりが、熱中してしまった。
電源を切ってノートパソコンをたたみ、掛けていた眼鏡を外す。
長めの前髪が、さらりと額にかかった。
泉実は普段、あまりパソコンやスマートフォンはいじらない。目が疲れやすいので、暇つぶしの利用は極力しないよう自制していた。
加えて泉実は交友関係が狭く、メールやSNSで頻繁にやりとりするような相手がいなかった。
中学から男子校だったため、六年間、学校で異性と接する機会がなかったうえに、外で女の子に声をかけられた経験も数えるほどしかない。
それどころか学校の男子からも、仲の良い数人以外から話しかけられたことはほとんどなかった。
泉実は癖のない顔立ちをしており、また感情をあまり表に出さないため、眼鏡を掛けると怜悧でどこか冷めた雰囲気になる。
それが見る者にとっつきにくい印象を与え、時に周囲から敬遠されてしまうのだった。
実際には人嫌いな性格ではないものの、かといって社交的ともいえない泉実は、他人から関心を持たれないことを気にしていない。
ただ、自分は誤解されやすいという自覚はあった。
泉実は軽くまぶたを押さえ、眼鏡を机の上に置くと、部屋着を脱いでパジャマに着替えた。
三月の夜は、まだまだ寒い。部屋の電気を消し、ベッドに入ろうとした時だった。
なぜだか、窓の外が気になった。
音がした訳ではない。何かに意識を引っ張られたような気がしたのだ。
泉実は再び眼鏡を掛けて窓に近づき、カーテンの端をめくって外をうかがい見る。
しかし、別段変わった様子はない。
不思議に思いながら視線を上げれば、空には薄雲に隠れた月があった。
雲の合間から射す淡い金色の波は静かに揺れ、周囲の夜空に幻想的な濃淡を浮かび上がらせている。
その様子をしばらく眺めていると、やがて雲が晴れてきたのか、月は徐々に輪郭を濃くし、やがてはっきりと丸い姿を見せた。
そして一層輝きを増したかと思った次の瞬間――月を取り囲むようにして、光の帯が、円の軌道を描き始めた。
いったい何が起こったのか。
考える間もなく、意識が遠のいていく。
それが、この世界での最後の記憶だった。