II 「漫研だよ」
校舎の中にも、美しい装飾や騒がしい看板の文字たちが溢れている。
はあ、と息が漏れると、おれの手を引く穂波がその引きを強め、おれを体に押し付けるようにする。
「もうため息?」
いつにもない大声。それでもおれの耳には小さく聞こえるから、おれも耳元まで顔を寄せて話す。
「こういううるさいのは好きじゃないんだ、知っているだろう?」
「知ってるよ」早くもやや腹立たしげな穂波である。「それに、どうせ私が行きたいところも静かなところだって」
「いいのか?」いつも子供っぽい感のある穂波が我慢していると聞き、おれは申し訳なくなった。「遠慮しなくてもいいぞ、穂波が良ければ」
すると、穂波は顔をそっぽに向ける。
「梓と回れればいいんだよ」
聞こえなかったことにしてやろう。
行くところを決めている穂波は、階段を上がって行く。開始直後とあってまだ上階に向かう人は少ない。シフトに就くのであろう人々とともに二階の廊下に出たかと思えば、連絡通路を通って中学校舎へと移る。
目がちかちかするのを気にしながら、穂波に尋ねる。
「なあ、どこへ行くんだ?」
「漫研だよ」
ぶっきらぼうに、それでいてどこか弾んだような声で答えた。
漫研、つまり漫画研究会。人数不足のため、研究部ではなかったはずだ。おれが天保の附属中学にいたころは、漫研といえば幽霊部員うんぬん以前に部活そのものが幽霊みたいなものだった。どこで、誰が、どんなことをしているのか、まるで知らなかったのに、文化祭のたびに部誌を持ち歩く姿はたくさんあった気がする。
漫画ならおれも嫌いではない。読む量は少ないが、むしろ好きなほうかもしれない。穂波は無類の漫画好きと言ってよかろう。となれば、中学生の展示とはいえ見に行って面白いものがありそうだ。
二年A組の教室が、漫研に振り当てられた部屋だ。連絡通路から一番近い角部屋で、正面には階段があり、隣のB組教室では図書委員会が古本のフリーマーケットをやっていた。なかなかにいい場所を取れたらしい。
横開きのドアのガラス部分にA4用紙が張られており、「うぇるかむ漫研」とかわいらしくレタリングされたピンクの文字が踊り、その脇にはこれまたかわいらしい女の子のイラストが描かれていた。
はあ、とまた心の中で思った。
「久しぶり、ユリちゃん」
部屋に入ってさっそく、穂波はドアの傍に受付として座っていた女子生徒に話しかけた。
「江里口先輩、来てくれたんですね」
受付の少女が微笑んだ。穂波と同じで分厚いレンズの眼鏡をかけていて、髪をサイドアップにしている。知り合いか、と尋ねようとしたが、まだ穂波とユリちゃんとやらの話は続く。
「美弦は?」
「いえ、いません」
「そのうち来る?」
「来ると思いますけど……いまは連絡がありません」
と言いながら、ユリちゃんは携帯電話をいじる。まったく、おれは中学生のころは携帯電話など持っていなかった。
ここでようやく、穂波に尋ねることができる。
「知り合いか?」
「うん。漫研の部長――というか会長――の浅村美弦って子が、美術部にも入っているから、私の後輩なの」
「なるほど、長い付き合いだな」
穂波は中学生のころも、いまも、美術部だ。そして、美術部の活動は中高合同である。
「じゃあ、美弦が来るまで待っていようかな」穂波は言いつつおれに確認の目配せをするから、おれは頷いた。「そういえば、美弦とユリちゃんで共作を作るとか言ってたよね? 見せてよ、どうなった?」
「あ、それはダメでした」ユリちゃんが残念そうな顔をする。「日程が合わなくて、自然消滅的になくなってしまって」
「仲がいいんだな」おれはまた素直に感心する。部活をやっていないせいでもある。「ほかの会員を差し置いて、中三ふたりだけで共作か」
「それはもう仲良しだよね」自慢げなのは穂波だ。おれに見せる初めての先輩顔だからだろうか。「高校でも漫研を作るって計画しているくらい」
「はい、メンバーもだいたい揃っているから、きっとできます」ユリちゃんは笑うと、すぐにその笑顔の色を変えておれを見る。「あ、先輩の彼氏さんに会うのははじめてですね。はじめまして、平馬先輩。江里口先輩からたくさんお話聞いています」
余計なひと言に逆上する穂波をいなしながら、ゆっくり見ていってください、とユリちゃんはおれにもにやり。「いつも穂波がお世話になっています」と返す。
ユリちゃんの言葉に甘えて、改めて部屋を見回した。おれと穂波以外に学生は五人いて、ユリちゃん含め漫研の会員らしいのが女子ふたりに男子ひとり、来客が女子ふたり。いずれも中学生用の地味なリボン、ネクタイだ。
部屋にはパネルが何枚か立てられ、模造紙に書かれた書評が貼られている。その前には机があり、その書評で紹介されている漫画が揃えられている。そして何より、中央には部誌が山積みにされている。過去の作品も展示という形で並んでいるようだった。
「これは大したものだな」
一冊手に取ってみる。業者に依頼して作ったのであろう冊子はなかなかに厚く、ピンク色の表紙にこれまた目を見張る美しい絵が描かれている。中を開いても同じように、中学生が描く絵とはこれほど上手なものだったろうかと驚かされる。
「これくらい中学生ならできるよ。ふつう、ふつう」
と、息を荒げた穂波がおれの感嘆に水を差す。
「そうか? そりゃ、プロや高校生ほど上手くはないと思うが、すごいじゃないか」
「梓が人を褒めるなんて珍しいけれど、実際梓の絵が下手なんだよ」
穂波の言う通りなのだが、いざ言われるとかなり心が痛い。
こと勉強に関しては多少の自信があるが、ずば抜けたほどではなく、芸術センスは皆無、運動も好きではない――つまりおれには才能がないのだ。対して、理系の科目に強く、絵画や音楽が好きな穂波は人格以外の面でも個性的である。
――羨ましいに決まっているではないか。
そう考えると、穂波をかわいがるのは芸術の才に嫉妬している裏返しで、久米をお人よしだと笑ったのは文系という個性を伸ばしている姿から目を逸らしたかったのかもしれない。いずれにせよ、自分にないものを持つ誰かを、悪意ではなくとも下に見たり、都合よく見たり、まったく自分は卑屈な人間だと思えてしまう。
「うん、いい。面白いね」
部誌をざっと読み終えた穂波が部員たちを振り返り、丸めた冊子でぽんぽんと拍手する。後輩たちが礼を言うのを遮り、歩み寄って内容について話しはじめた穂波を見ていると、自分が穂波を好きになった理由を新たに見つけた気がした。
そんなときだった。
「あれ? このお話、どこかで……」
客のひとりが、ふと物騒なことを呟いた。