I 「ぴったりかもな」
文化祭一日目:平馬梓
『これより、「みのり祭」を開幕します!』
生徒会副会長だか文化祭実行委員長だか忘れたが、サッカー部らしき風貌の二年生が舞台の上で高らかに宣言すると、行動がどっと揺れるような歓声に包まれた。
朝からさっそく、気分は疲れていた。気の病は体の病へと繫がり、自然と手がポケットに滑り込み、欠伸が出るとともに頭が前に突きだし、猫背のような姿勢になる。天気だって強い寒波の影響からしとしとと雨が降ってとても寒く、はしゃぐ気持ちには到底なれない。この憂鬱な気分ときたら、「開催」ではなく「開幕」を選ぶあたり、いかにもサッカー部らしくて気取ったところがあるな、と興奮そっちのけで考えていたくらいだ。
出席確認は終わっているので、開幕の宣言とともに朝礼は解散である。あとは楽しむなりサボタージュするなり帰るなり、好きなようにして構わないということになる。まあ、第一の選択肢以外は許されまい。
体育館は居づらくて仕方がないから、とりあえず外へ出たい。踵を返したそのとき、タイミング悪く背後から声をかけられてしまった。
「平馬、きょうの予定は?」
声をかけられたからには振り返ると、皮肉を言い合う間柄のクラスメイト、久米弥である。久米はにこにことして期待と興奮を隠しきれない様子だったが、おれが振り返ったのを見た途端に怪訝な表情になった。
「気分が乗らないの?」
優男はおれの返事を待たずに訊きたてる。
「いいや、お祭り騒ぎはどうにも好きになれないんだ。面白くない」
「ふうん、平馬らしいかもね」
「まあ、一日穂波の世話でもしているさ」
ふと無意識に恋人の名前を挙げると、久米はにやにやしながら大きく息を吐いた。表情豊かである。
「羨ましいねえ、恋人と過ごす文化祭」
「久米だってだいたいは家入ちゃんと過ごすんだろう?」
久米は家入才華という同級生と同居している。学校でそれを知る生徒はおれを含め数人だが、仲睦まじい家入ちゃんと久米の様子に嫉妬する男子生徒は少なくない。
「まあ、ううん……そうなるかな?」
妙な返事に引っかかったが、体育館から出たい気持ちを優先することにした。渡り廊下に出て、大声を出さなくても話せるところまで来ると、久米が再び訊いてくる。
「なあ、ところで平馬は古文の読解は得意?」
唐突な話題の転換に一瞬戸惑った。
「文化祭開始早々授業の話か? 楽しんでいる久米なのに」
「ああ、いや、きのう杉内先輩に気になることを唆されてさ。才華には聞きそびれちゃって」
「まあ、言ってみろ。久米がわからないものを聞いただけで理解できるかは微妙だがな」
久米と言えば文系一辺倒。おれも自信がないわけではないが、それ以上に違いない。
そのように先手を打ったが、構わず久米はやや上を向きながら諳んじる。
「枕草子で『ひとにあなづらるるもの』として挙げられているらしいんだけど、『あまりにこころよしとひとにしられぬるひと』ってどういうこと?」
口の中でその一文を咀嚼すれば、それほど難しくないとわかって呑み込めた。
「要は、『やたらとお人好しだと周囲に知られている人』は『人に舐められる』ということだ」
理解してみれば、こんな文章について久米が訊いてきたのが滑稽だ。久米だってよく考えればわかるはず。笑いとともに、「久米にぴったりかもな」と付け足した。
すると、久米は斜め上の質問を返す。
「ぼく、そんなにお人好し?」
「……そういう気はある」
特に論拠のない曖昧な返事だった。
納得しないのもわかる。おれとて、自分が人好しかと問われれば「偏屈だよ」と返すことだろう。ただただ「お人好し」という評価も、人によっては皮肉に聞こえる――「ひとにあなづらるる」というのはそういうことなのかもしれない。
ええ、そうかな、と抗議した久米は、ぶつくさと疑問を口にしながら自らの持ち場へと去って行った。背の低い久米だから、廊下を埋め尽くす色とりどりの雑踏に紛れるとすぐに見えなくなってしまった。
渡り廊下から中庭を眺める。模擬店はこの一帯に集中しており、その団体の生徒であろう、エプロンやメイド服のコスプレといった制服姿ではない多くが渡り廊下から中庭へと逸れていく。さながら迷路のような校舎を分断しているここが、文化祭中最も賑わうこと疑いなしだ。
そんな中庭には、あらゆる団体の横断幕や看板が競い合うかのように並び、やかましくおれの目に飛び込んでくる。力作たちはそれぞれに輝かんばかりで、とてもおれには真似できない芸術性、そして技術を以って制作されている。何を描いても象形文字のようになり、色を塗ればはみ出す、といった具合に不器用なおれはこういうものを見ると、常々羨ましさと劣等感に苛まれる。
これだからお祭りは好まないのだ。
どん、と雑踏に突き飛ばされた。体育館を出てすぐの渡り廊下だ、じっとしていては邪魔であった。雨のせいで廊下の真ん中を通ろうとするから、おしくらまんじゅうだ。
すると、今後は誰かにぐいっと腕を引っ張られる。やや前につんのめると、そこにはまた背の低い奴がいる。
「おう、穂波」
おれの袖を引くのは、愛しの恋人、江里口穂波である。度の強そうな銀縁眼鏡がトレードマーク、最近また少し髪を切ったショートカットが新鮮だ。四年目になる制服が未だに大きくて袖から手が半分ほどしか出ないこぢんまりとした彼女は、いざおれを引っ張り出すとかける言葉が見つけられず、
「……ほら、行くよ」
とだけ呟いて校舎の中へとおれを誘う。背の低い穂波に強く引かれると、転びそうになったり男子生徒の肩に顔をぶつけたりと、ろくな目は見ない。きょうでなくたって、いつも強引で、短気で、乱暴な――
人のことは言えないが、無愛想なこいつに付き合うのも、奇行を繰り返す家入ちゃんに振り回される久米と同じ、人好しなのではないかとふと考えた。
いいや、違うな。あいつのほうが人好しだ。