II 「あなづらるるもの」
文化祭前日:久米弥
金曜日は授業がなく、一日丸々文化祭の準備に割り当てられた。
沸き立つ校内の雰囲気を楽しみながら、「部活のほうの準備に行くよ」とクラスメイトに断って教室を出た。目指すは国語科資料室、将棋部の部室である。
国語科といえば日曜日の才華を思い出す。あれから才華はすぐに解読に成功し、「なんだ、この程度か。簡単な話だったね」とがっかりしていた。「そらみろ」と言ってやったら、それはもう臍を曲げてしまい、なおさら扱いにくくなった。
けれども、才華の達成感あふれる嬉しそうな表情は目に焼きついている。
暗記していたぼくには、そういった楽しみは正直もうないのだろうな――そんなことを、同居生活を送っていることは伏せつつ部活の先輩である杉内先輩に話した。
「まあ、久米くんらしい話ではあるね」
『対局承ります』『詰将棋に挑戦しませんか?』といった広告をドアに貼りながら、杉内先輩はふふんと鼻で笑った。
「ぼくらしいって、どういうところが?」
「久米くん、受験の結果は散々だったんだよね?」
う、とぼくは口籠る。考えてみればまだ半年が過ぎた程度の話である、正直すっかり昔のことのように思っていたが、ぼくはつい最近高校入試に連戦連敗している。結果、受験校の中で最もレベルの高い天保高校に入学できたことは、奇跡の産物としか言いようがない。それを昔のことに思うということは、自分に見合わないレベルの学校で負け続けることに慣れたということだろう。
杉内先輩は再びふふん、と笑う。鼻で笑うのが癖なのだ。
「久米くんにそういうところがあるから、受験に失敗したとしか思えないねえ」
「そういうところ?」
杉内先輩はドアの掲示を終え、国語化準備室に入ってきた。それから窓の外を見た。ここは一階で、中庭で模擬店を準備する賑やかな様子がよく見える。
「ところで、枕草子と言えば僕は、『ひとにあなづらるるもの』から始まる章段が好きなんだよ」
「先輩、ぼくの疑問は?」
「この章段をごくごく単純に読み取れば、これまた久米くんに届けると面白いことが書かれているのさ」
「はあ……」
「あなづらるるもの、つまり、侮られるもの、見くびられるものということだね。それに挙げられているのが、『あまりにこころよしとひとにしられぬるひと』」
「聞いただけじゃよく解らないです……日曜日のことと関係があるのですか?」
「関係ないよ」
なんのこっちゃわかりまへん。
もやもやとして正直気に入らない。杉内先輩はマイペースとも違うのだが、ときどき手に負えなくなる人だ。集中力に優れ博学なところはまさしくこの学校に相応しい天才肌を持った人物と言えるのに、「変人」と形容しなければならない奇行が目に余る。
喉の奥で唸るぼくをよそに、杉内先輩はついに主役たる将棋盤を取り出す。
「内装も終わったろう? 一局どう?」
棚から取り出した将棋盤と駒箱を、ふたつ並べた机の一方に置いた。
この部屋はあくまで国語科資料室なので、国語科に関する資料が置かれている。下手に触れば怒られるけれど、もともと文芸部が使っていた部室だけあって、立派な専用の棚が用意されていた。そこに、たった三面ではあるが、盤を保存している。
盤は折り畳みがきるものがふたつ、一枚板のようなものがひとつ。どれも脚などついておらず、駒もカエデか何かのの書き駒だから、はっきり言って安物である。随分古くなっているはずなのに、浮いている文字のところが不自然につやつやとしてプラスチックじみているのが何ともチープな品だ。
駒と盤だけでなく、タイマーも置かれている。正式名称は知らないが、一手にかかった時間や持ち時間を図るためのものだ。つまり、テレビで「なんとか五段、残り三分です」とか「十秒」とかと数えるのに用いるもので、実際見たのは高校生になってからだ。
このタイマーについては見る度思い出すことがある。ぼくの勝率はせいぜい一割程度なのだが、駒落としではさすがに高校生同士には不平等が過ぎるということで、杉内先輩に限り十秒で指さなければならないというルールにしたときのことだ。無限に考えてよいぼくと、十秒以内で手を考えなくてはならない杉内先輩――ハンデをいただいたからには、遠慮なく全力で勝ちに行った。
見事、敗れた。
当時よりはぼくも力をつけたつもりだが、次の一手に窮したときにはこのタイマーに視線をやって心を落ち着けることもある。正直嫌な思い出ではあるが、ぎらつく銀縁眼鏡の奥の目が笑っていたあのときの先輩を見習わなくてはならない。
そんなふうに、とにかく強い杉内先輩に挑み続けるのがぼくの楽しみだ。いつか互角になってやろうと、気持ちよく負け続けている。となればもちろん、誘いは断らない。もっとも、ほかの部員が幽霊部員で、対外試合も組まれていないから相手が杉内先輩以外にいないのも確かだ。
杉内先輩が駒箱を静かにひっくり返し、散らばった駒をぱちり、ぱちりと整列させる。ぼくは格下を示す玉将、杉内先輩は格上の王将。振り駒などせずとも、ぼくは万年先手である。それぞれ違った流儀の順番で駒を揃えていくうち、違和感を覚えた。
「うん?」
「おやおや、駒落ちはしないと決めたのにねえ」
駒が足りないのだ。