#4-2 道化者・後編 -a man betrayed by his famiry. latter part-
「実はね、お父さん……。実は私、お母さんに会っていたの!!」
「え?」
娘の告白に私は、余りの衝撃に間抜けな一言を返すしかできなかった。
それからしばらく娘の独白が続くが、その時から私の頭の中には何か靄のようなものがかかっていて、何を言われても頷くだけのモノになっていた。
そんな中でも、今現在妻はここからざっと4~50km離れた隣県の町に男と住んでいる事。2人に会った時、妻が幸せそうにしていた事。そして、黙って披露宴に招待したのを許してほしいという事。そのくらいは何とか理解できた。
「そうか、今まで黙っていて辛かったろう。話は分かった。お前たちが納得しているなら、私は何も言わないよ。さあ、明日は大事な日なのだから早く寝なさい」
私は妻が自分以外の男と暮らしていると聞いても、娘やここにいない妻に怒りを覚える事もなく、娘に逆に労りの言葉をかけていた。
ただ、ぼんやりした思考の中でも、自分が今まで大切にしてしてきたものの一つが音も無く砕けてしまった、そんな実感だけはあった。
披露宴当日、私は会場へはある場所に寄ってから向かった。
会場に入って新郎の御両親に挨拶をした後、ロビーの端で一人ポツンと座っていると背後から娘が声をかけてきた。
「お父さん、お母さん連れてきたよ」
その声に私は、慌てる事もなく立ち上がりゆっくりと振り向く。
するとそこには娘と、幾分老けてはいたが出ていく前とほとんど変わらない姿の恵理子が立っていて、ひどくすまなさそうな顔でこちらを見ていた。
「……久しぶりね、あなた……。お元気そうね」
「ああ、久しぶりだな……。お前も元気そうで何よりだ」
遠慮がちに言葉を発する恵理子に、私には何の感情も起きなかった。
本来起こりうるであろう、生きていた事に対する嬉しさや喜び、何も言わず出ていったことに対する怒りや悲しみも全て。
おそらく、娘の独白を聞いた時の状態がまだ続いていたのだろう。
その一言以降恵理子は俯き口を閉ざし、私の方も掛ける言葉もなくただ彼女を見つめていた。
5分か10分か、どれだけそうしていたか分からないが、訳の分からないお見合い状態が続く。
さすがに付き合ってられないと思いそこから離れようとした瞬間、恵理子がおもむろに顔を上げた。
「あの、あなた……。実は私、……」
私を怒らせないようにか一言一言を選ぶように話し始める恵理子に、私は彼女の言葉を半ば遮るよう形で口を開く。
「ああ、その事か。麻衣から聞いているよ。これは私からの最後のプレゼントだ。私の分は書いてあるから、お前が役所に届けておいてくれ」
そう言って、スーツの内側から折り畳んだ紙を取り出し恵理子に渡した。
朝一に役所に行って取ってきた、離婚届だった。
受け取った紙を広げて見た瞬間、何故か呆然とする恵理子と麻衣。
しかし次の瞬間、恵理子がホッとした表情になったのを私は見逃さなかったが。
そんな彼女らを尻目に、私は再び一人になれる場所を探すためその場を離れた。
それから少しして披露宴が始まったが新郎新婦は友人達の相手で忙しくてこちらと話す暇もなく、また恵理子はこちらを一切見ようとせず新郎両親と話し込んでいた。
そんなわけで他に知り合いもいない私は娘たちを肴に一人飲み食いするしかなかったが、娘達は料理がおいしいホテルを選んだようで食事はそれなりに楽しめた。
それから親としての最後の義務として客の見送りをした後、新郎両親からの誘いを明日は仕事があると断って帰宅した。
娘が結婚して家を出てから3ヶ月後、私は会社を辞め元の町から車で1時間ほどにある父親の郷里の山裾の村に家を買って住んでいる。
父の郷里といっても直系の親族は誰もおらず、またそれらを知っている者がいたとしても私自身は一度もここに来たことはないので、たまたま同姓の者が越してきたと思われるだろうと踏んでの事だった。
家を買う金は退職金を使い、もし足りなければ今まで貯めたもので補填しようと思ったが、結局その村は過疎が進んで空き家が多いため庭付きでも退職金の範囲で購入できた。
まぁ、会社の早期退職者の募集に乗っかったので、その分多く退職金を貰えたというのも大きかったが。
娘にはこちらでの生活が落ち着いてから知らせた。
当然ながら娘からはお怒りの言葉をもらったが、私としては誰もいなくなったあの部屋でこれからも生きていく気になれなかったのだ。
それからしばらく元いた町に投資の打ち合わせに行く以外は、庭の畑に出るか家にこもってネットを眺めるかという晴耕雨読のような生活を続けていた。
こちらに移って1年ほど経ったある日、娘から久しぶりに葉書が届く。
この家にはインターネット専用の回線しか引いておらず、また携帯電話も切っている事が多いための配慮だろうか。
つい先日に子供が生まれたらしく、葉書の裏には丸々とした女の子を抱き上げる娘が写っていた。
私は即座にネットでお祝いの品を注文し、簡単な手紙を添えた祝い金を送ったが、何故か会いに行こういう気にはならなかった。
さらに1年ほど経ったある日、ちょうどその日は元いた町で投資の打ち合わせをする約束があったので、ついでに孫の顔を見ていこうと思った。
そしてその日は奇しくも娘の誕生日でもあったので、娘一家を連れて何か美味しい物でも食べに行こうかとも考えていた。
自分に不本意なことがあって田舎に引きこもったものの、さすがにそれを孫にぶつけることはしてはいけない、きちんと娘たちと向き合っていかなければと今更ながら思い直したからだ。
さすがにそこまで至るのに1年以上かかったというのは、私自身がまだまだ大人として成熟していない証拠だと感じ思わず苦笑してしまったが。
しかしその考えが私を自分でさらなる地獄に落とすことになるとは、その時には夢にも思わなかった。
町へ行く前日、娘に電話を入れるとたいそう喜んでくれ、夜は一緒にご飯を食べようとも言ってくれた。
そして当日、午前中に打ち合わせを終え、その町にあるレストランで昼食を摂っていた。
そのレストランはその町の人々が何か祝い事があったり、ちょっといい食事をしたい時などによく利用するところで、かく言う私も家族が揃っていた時には娘の誕生日の時は必ずここで食事をしていた。
食後のコーヒーを飲みながら幸せだった日々に思いを馳せていると、入口の方から賑やかに入ってくる家族連れらしき客が見えた。
最初に入ってきたのは私と同じくらいの年格好をした男だったが、彼を見た瞬間どこかで見たことがあるような気がした。
それが誰か喉まで出かかっているのに思い出せず眉をひそめて見ていたが、次に入ってきた者達を見て誰かが分かると同時に、この10年ちょっとの間で何が起こっていたのか何故かはっきりと理解できた。
次に入ってきたのは、恵理子と幼子を抱いた娘の麻衣で、一緒にいるのは以前恵理子の上司であった男だった。
男の事は恵理子との挙式の時に紹介され、彼女の失踪後も時々心配して電話をかけてくれたりと良い人物だと思っていたのだが……。
一瞬、怒りに私の頭が沸騰しそうだったが、無理矢理それを抑え込んだ。
娘から恵理子の事を聞いていたのと、離婚届を渡して縁を切ったのを思い出して今更どうしようもないと思ったからだ。
かといって急に感情が落ち着くわけでもなく、店員を呼んでコーヒーのお代りを頼んだ。
その者達が店員に案内され、こちらの方へ向かってくる。
それを見た私は、咄嗟に席の奥の方へ体を滑らせた。
余談だが、この店はテーブル席ごとに背の高いパーティションで区切られていて、半個室の様になっている。
そのため多少騒いでも周りからジロジロと見られることがなく、また奥の方に体を寄せてしまえば席の前に立たない限り周りからは見えなくなるのだった。
彼らは私の席の手前の席へと入っていき、間もなくパーティションを越えて彼らの楽しげな会話が聞こえてきた。
自分では全く意識していなかったが、その時の私は非常に不愉快な顔をしていたのだろう。コーヒーを持ってきた中年の店員が寄ってきて、向こう側に聞こえない程度に声を落として私に話しかけてきた。
「お客様、お騒がせして申し訳ありません……」
店員は私に謝意を伝えると、一呼吸おいてまた話し始めた。
「あのお客様方は、十数年ほど前からこの時期になると娘さんのお祝いのために当店に来られまして。ですので、今日ばかりは大目にみて頂けないでしょうか? もしなんでしたら、お席を代えさせていただきますが……」
「なんだと……?」
店員の言葉に愕然とし、声なき呟きをもらすが精一杯だった。
次の瞬間、私の頭の中を覆い続けていた靄の様なものがスッと消え去り、ずっと自分が元妻どころか娘にまで裏切られ続けていた事に気付く。
その時の私は、気付かなかった情けなさに笑いたかった、嘘を吐かれていた悲しさに泣きたかった、家族を奪われた怒りに叫びたかった、そんな思いが胸中で渦巻いていた。
しかし、だからといって隣の席に怒鳴り込むことはしなかった。
私が今まで娘にしてきた事はもしかして全て無駄だったのではないか、結局私は元妻と娘に振り回された道化者の様なものではないか、もし怒鳴り込んでも自らの間抜けさや惨めさをさらすだけと思ったからだった。
「あ、あのお客様……?」
気遣わし気に話し掛ける店員の声に、私はハッと我に返る。
どうやら私の中で負の感情があまりに膨れ上がってしまったために、軽く意識が飛んでいたようだ。
「ああ、すまない。もう、大丈夫だ。これを飲んだら出るから、先にこれで精算しておいてくれないかな?」
「畏まりました。お預かりいたします。では、少々お待ちくださいませ」
店員が何か言いたげな表情をしてこちらを見ていたが、財布からクレジットカードを出して渡すと型通りの言葉以外は何も言わずレジの方へ去っていった。
私もコーヒーを飲み干すと、彼等に気付かれないよう大回りでレジに向かった。
レジでカードと利用伝票を受け取ると店を出て、娘にメールを打つ。しかし、まだ送信ボタンは押さなかった。
メールには今しがたまでその店にいた事、今日は会わずに帰る事、そして今後は二度と会わないという事を書いた。
私はメールに誤字がないことを確認した後店の前の大通りの横断歩道を渡り、そこの信号が点滅するあたりで送信ボタンを押す。
「お父さん! お父さん! 待って……!」
信号が変わってすぐくらいに背中に娘のものらしい声が届くが、私はその声を無視して駅へと向かっていった。
それから家に戻ると、すぐに家を引き払い海外へ移住する準備を始める。これ以上、恵理子や麻衣がいる場所にいるのが嫌になったのだ。
"逃げ"と言われればそれまでだが、戦って勝ったところで何も得るものはないし、逆に失ったものを再認識させられて更に惨めな気持ちにはさせられたくなかった。
あと他の地方ではなく海外への移住を選んだ理由については、自分でもいまいちよくわからないが多分彼女達と金輪際会わないようにするためだろうか……。
しかしすぐには家屋・土地の処分や移住先の手配もできない、かといって彼女達にも会いたくなかったので今まで行きたかった場所へ旅行をすることにした。
幸い今まで投資で得た利益が、今後一切働かなくてもあまり派手な暮らしをしなければ十分なくらい貯まっていたので、旅行資金については考える必要がなかった。
本当はいずれ麻衣やその子供に残すつもりで貯めてきたものだったが、今ではもうそんな気はさらさらなく自分で使えるだけ使ってあとはどこかに寄付するつもりだ。
旅行には友人でもあるトレーダーや不動産屋等との連絡用に使うタブレットだけを持ち、携帯電話は電源を切って家に置いてきた。
ちなみにその間の庭の畑は隣の家(といっても20mほど離れていて、そこも畑を持っている)に世話を頼み、私がいない間に採れた野菜は全部引き取ってもらうようにした。
それ故にこちらに直接連絡がくる事はなかったが、たまに戻ると携帯に大量の着信・メールと彼女達かららしい葉書や手紙がいくつかきていた。
しかし私は着信やメールは目を通すことなく削除し、手紙なども見ることもなくシュレッダーで裁断した後で庭の焼却炉で燃やした。
それから2ヶ月くらい経ったある日のこと、家屋売却の準備や隣家への挨拶などを全て済ませ"ここの生活もそろそろ終わりか……"と思いにふけっているとドアホンのチャイムが鳴った。
隣家の人かなと思いドアホンのモニターを覗くと、そこに映っていたのは麻衣とその夫君だった。
モニターに映った2人の顔は、どこか切羽詰っているように感じた。
彼女らの顔を見て居留守を決め込むつもりだったが、やはりまだ情もあったのかモニター越しに声を掛けてしまう。
「何か用か? お前たちとはもう会わないと言った筈だが?」
しかしその時の声のあまりの冷たさに、自分でも驚いてしまった。
「……!」
私の言葉に、2人の顔が信じられないものを見たかのように強張る。
しかしどうしても話を聞いて欲しいのか、拒絶されたにも拘らず麻衣が必死な声で訴えかけてきた。
「お父さん! 娘を、娘を助けて! 娘が病気になったの! 病気を治すにはお父さんの助けが必要なの! だから私たちに会いたくないならそれでもいい、でも娘は、娘だけはどうか助けてください!!」
麻衣は地面に付きそうなくらい頭を下げていたが、私の中に何の情動も起きなかった。
おそらく、あの時から私は人としては壊れていたのだろう。
いや、もしかすると麻衣から恵理子の話を聞いた時からかもしれない。
目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘が必死になっているというのに、自分の孫が命の危機に瀕しているというのに、そういえば以前骨髄バンクに登録したことがあったなぁくらいにしか思わなかった。
そして次に私から出た言葉は、先ほどよりもさらに冷たいものだった。
「知らん、帰れ」
まさか私からそこまで拒絶されるとは思わなかったのだろう、私の一言を聞いた途端2人共何を言われたのかわからないといった感じで呆然となった。
しかしそれも束の間、麻衣はその顔を怒りと悲しみに染めカメラの前から姿を消す。
さすがにもう帰ったかと思った瞬間、玄関から物凄い音が響いてきて、誰かが泣き叫ぶ声とそれを嗜めようとする声が聞こえてきた。
私は一応玄関には行ったが、ドアを開けずにただ響いてくる叫び声を聞いていた。
そして聞いている内に、もう忘れ去っていたと思われた彼女たちに対する怒りが沸々と沸き上がってきた。
「俺の人生を踏みにじっておいて、何を勝手なことを言ってやがる! 俺の骨髄をお前らの娘にやる前に、俺の今までの時間を返しやがれ!!」
そう言いたかった。しかしここで何を言ったところで過ぎた時間が戻るわけもなく、怒りながらもどこか空しい気分で麻衣の叫びを聞いていた。
それからどれくらい経ったか、いつの間にか叫び声が途絶えドアの前から気配が消えた。
いいかげんやっと帰ったかと思った瞬間、またチャイムが鳴った。
さすがに今度は出なかったが(でも音声は流している)、私が出ようと出まいとどちらでもよかったのだろう、一方的に夫君の声が聞こえてきた。
「お義父さん、お義母さんや麻衣と何があったかは知りません。それは僕が聞いても理解できない事なのかもしれません。ですが、もし娘がこのまま死んだら、僕は一生あなたを恨みます。…………では、また来ます」
夫君は言うだけ言うと、悄然とした様子の麻衣を連れてモニターの前から去っていった。
翌日から出発の日までまた旅に出るなど家にいないようにし、家にいる時はなるべく物音を立てずに暮らして誰か来ても居留守を使った。
その間、麻衣やその夫君だけでなく時には恵理子も来たようだが一切無視し、メモや手紙が残されてあっても以前と同じように読まずに破いて捨てた。
そして当日の早朝、私は空港のロビーで出発の時間を待っていた。
家と家財道具は、不動産屋に処分を頼んでおいた。
畑の道具や苗は、隣家に引き取れるものだけ引き取って後は捨ててくれと頼んだ。捨てるのに費用が掛かるものがあるかもということで、頼む時に幾らか金も渡しておいた。
荷物は2、3日分の下着の替えと貴重品、あとは携帯電話と投資取引に使うタブレットだけで、少し大きめのバッグ一つに全て収まった。
無論、携帯電話の電話帳にある麻衣たちの番号やアドレスは着信拒否設定にしてある。
すべての手続きを終えロビーの椅子でぼうっとしていると、携帯電話が鳴りだす。
番号を見ると、友人でもあるトレーダーからだった。
電話を取って話を聞くと、どうやら麻衣が友人の番号を調べて連絡し、彼から私を説得するように頼まれたらしい。
向こうの話だけを聞いてものを言っているだけに腹が立ったが、態々経緯を説明してやる気もなく何も言わずに通話を打ち切りそのまま電話機をごみ箱に捨てた。
それからしばらくやり場のない怒りに一人悶えていたが、私が乗る機の搭乗アナウンスが聞こえたので”まあいい、これでこの国も見納めだしな”と気持ちを切り替え、立ち上がって搭乗口へと足を向ける。
歩き出した瞬間には向こうでの生活のことでで頭がいっぱいになり、そのため後ろから誰かが近づいてきたことに私は全く気付いていなかった。
出発口の手前で、いきなり背中に何かがぶつかってきた。
誰かが前方不注意でぶつかってしまったのかと思ったが、すぐにそれが故意であることに気づく。
ぶつけられた瞬間ちょうど肝臓のあたりで、かすかな痛みと同時に異物が差し込まれる感じがしたからだ。
一体何があったのかと振り向こうとしたが、刺されたあたりから激痛が走る。
あまりの痛みに悲鳴を上げたかどうかすら分からず、その痛みから逃げようとするかのようにだんだんと意識がかすれてきた。
そんな朦朧とした意識の中、聞き覚えのある声が聞こえてきた。女の声だった。
「あのね……。あのね、昨日私達の娘が死んじゃったの。もしお父さんが助けてくれたなら、まだ生きていたのかもしれないのに……。だからね、お父さん。お父さんは一緒に天国に行って、あの子に謝ってくださいね……」
声が途切れた瞬間、刺された場所からさらに激痛が走り、声なき叫びを上げつつそのまま意識を手放した。
(これが、私に対する因果応報か……。でもまぁ、いいか。これで楽になれる……)
それが、脳裏に浮かんだ最後の言葉だった。
-------------------------------------------
「はっ? ここは? 私は確か……」
「ジャスト3分。いい夢は見れましたか?」
「あ、そうか。私はあのカクテルで夢を……」
「はい」
硬直が解けた男は、何が起こっていたのかわからないという風にキョロキョロと周りを見回し始める。
そこに水瀬から声を掛けられ、ようやく自分が夢を見ていたことに気付いたようだった。
「いい夢だったかどうかは分からないが、私にも人としての感情がまだ残っていたようだ。自分にまつわるものすべて捨てて来たつもりだったが、どうやら捨てきれないものもあったらしい……」
そう言って水瀬の方を向いた男の目には、ここに入ってきた時には見えなかったある種の感情が渦巻いているように見えた。
ここに入ってきた時は普通の受け答えはできるものの、どこか違う場所を見ているような感じがしたので本来なら喜ばしいことではあった。
しかし彼から垣間見える感情が"憤怒"であることに、水瀬はカクテルを飲ませてよかったものかと内心で頭を抱えていた。
「さて、最後の思い出は頂いたし、そろそろ行くとしよう。勘定を頼むよ、バーテンダー君」
男は水瀬の懊悩を知ってか知らずかどこか吹っ切れた様子で彼を呼び、水瀬も客のことに介入できるわけもなく笑顔を取り繕いつつ伝票に金額を書いて男に渡す。
伝票を受け取った男はその金額に一つ頷くと、コースターの下に1万円札を置く。
「釣りはいらないよ、いい夢を見させてもらった礼だ」
「いや、そういうわけには参りません。当店は値引きもしませんが、余分に頂くこともいたしませんので」
水瀬の意外に強い態度に男は苦笑するが、金を戻そうとはしなかった。
男と水瀬が意地の張り合いのような雰囲気になる中、カウンターの一番奥の席から気だるげな声がする。
「お~い、マスターよぉ。お客さんが釣りはいらねぇって言ってんだから、素直にもらっとけば?」
男が奥に目を向けると端の席に火置が座っていて、面倒くさそうに彼らを見ていた。
その時の火置は水瀬の友人ではなく、たまたまその場に居合わせた酔客という雰囲気を装っていた。
「別にそちらさんはタダで金をやろうってんじゃない、マスターのサービスに金を払おうってんだ。違うかい?」
「いや、しかし……」
火置の言葉に男はその通りだといわんばかりに頷くが、水瀬はそれでもプライドが邪魔するのかまだ逡巡していた。
そんな水瀬の様子に男は少し困った顔になるが、すぐに何か思い付いた様な顔で彼の方へ向く。
「ああ、そうだ。バーテンダー君、ではこうしよう。もしかすると、近いうちに誰かが私を探してここを訪ねてくるかもしれない。その時のために伝言を残しておくから、その人達が来たら渡しておいてほしい。まぁ半年も来なければ、捨ててくれて構わないがね。だからそれは、その預かり賃としておいてくれないかな?」
男の言葉に水瀬は視線をそらせて眉を顰めるが、それも一瞬のことですぐに男の方に向き答える。
「……分かりました。ご伝言、お預かりいたします」
さすがに男の方も断られたらと思っていたのか、水瀬の返答にホッとした表情をしていた。
「そうか、勝手なことを言って申し訳ない。勝手ついでに悪いが、メモ紙と筆記具を貸してくれないか?」
「はい。すぐにお持ちいたしますので、少々お待ちください」
さすがに水瀬も請け負うと言った以上すぐに頷き、店の奥から便箋と筆記具を持ってきた。
「ありがとう」
「では書き上がりましたら、またお呼びください」
男は水瀬が持ってきたものを受け取ると、礼を言って便箋に何かを書き始める。水瀬も男に便箋を渡すとその場から離れ、火置を相手にしつつグラス磨きなどの作業をし始めた。
それほど書く事は多くはなかったのか、水瀬が離れていくらもしない内に男は書き終え、紙を幾重にも折りたたんでから水瀬を呼ぶ。
「ではバーテンダー君、すまないがよろしく頼むよ。先程も言ったが、半年も誰も来なければそのまま捨ててくれていいから」
「こちらですね。では、お預かりいたします」
水瀬は男から折りたたまれた紙を受け取ると、あまり使わない棚の奥にしまい込んだ。
男はそれを見届けると、スツールを降り水瀬の方に顔を向けた。
「さて、そろそろ行かねば間に合わなくなるので、これにて失礼するよ。……ああ、もしこの国に帰ってくることがあれば、またこの店に寄らせてもらっていいかな?」
「はい、もちろんです。近くに来られた時は、ぜひお立ち寄りください。本日はありがとうございました」
水瀬からの返事に、男は笑顔で頷き店を出て行った。
それから2ヶ月ほど経ったある日の夕方。
水瀬が開店の準備をしているとドアのベルが鳴り、彼が音の方へ眼を向けるとそこには20代後半くらいの男女が立っていた。見たところ、彼らは夫婦のようだった。
「折角来ていただいたのに申し訳ありませんが、まだ開店準備中なのでまた1時間ほど後に来ていただけませんか?」
入ってきた2人に再度来るよう声を掛ける水瀬だったが、立っている2人が酒を飲みに来た者たちとは違う雰囲気をまとっていることに気付く。
では何をしに、と水瀬が思ったところで2人の内女性の方が彼に近付き、1枚の写真を取り出して彼に見せた。
「実は私たち人を探しておりまして、この町に来たという情報を得て聞いて回っていたのです。そしてある人からここへ行ったという話を聞きまして、それでお話を聞かせてもらえないかと……」
「ああ、そういうことでしたか。ええ、この方なら2ヶ月ほど前に来られましたよ」
水瀬の返答に2人は嬉しそうな顔で見合わせ、また水瀬の方を向き口を開く。
「では、この人がその後どこへ行くか聞いていませんか?」
「いえ、申し訳ありませんが、そこまでは……」
女性への回答に、水瀬はほんの少しだけ嘘を混ぜた。
まぁ海外に行くといってもどこへ行くかは聞いていないし、あの時間から船で国を出るという事は跡を追い掛けさせないという意思表示でもあるのだろう。そう思ってのことだった。
「そうですか……」
「お役に立てず申し訳ありません」
あからさまに落胆した表情になった女性に、なんと言っていいか分からず謝罪の言葉を掛ける水瀬。
女性はまだ何か聞きたそうだったが、今まで後ろで事の成り行きを見ていた男性がスッと女性に寄り添い肩を抱いた。
「気持ちは分かるが、今日はもう帰ろう。このままいても、お店の迷惑になるよ。……準備中にお邪魔してすみませんでした。それでは、失礼します。ああ、連絡先を置いていきますので、もしまた来たら連絡していただけませんか?」
「はい、分かりました。もし来られたなら必ず。……あ、そうでした。そのお客様からご伝言を預かっているのを忘れていました。どうも申し訳ございません」
水瀬が連絡先を受け取った直後に何か思い出したのか急に眼を見開き、それからすぐすまなさそうな表情で彼らに告げた。
「えっ!? それは一体どのような……」
「内容までは私にも分かりません、お客様が書いたものをお預かりしただけですので。それで、これがそのご伝言が書かれたものです。どうぞご確認ください」
水瀬は壁の棚から折りたたまれた紙片を取り出すと女性の方に渡す。なんとなく女性の方が男の実の家族だと思ったからだった。
女性が受け取った紙片を恐る恐る開く。
そして彼女が紙に書かれた内容を読んだ瞬間、酷く驚いた表情になりそのままその場で頽れて大声で泣き始めた。
「何で!? どうして!? 私が何をしたって言うのっ! それにお母さんの事は、あの時に許してくれたんじゃなかったのぉっ! 何で今更……。うわあああああああん!!」
「お、おい、いきなりどうしたんだ!? 泣いてちゃ何があったのか分からないよ。とにかく泣き止んでくれよ! ……しかし、その紙に一体何が?」
男性が訳が分からずも懸命に宥めるが一向に泣き止む気配はなく、困り果てた末に今だ泣きじゃくる女性から紙片をそっと取り上げる。
「何だこれは……? お義父さん、一体何が……!?」
男性が紙片を見た瞬間、書かれていた内容の衝撃があまりに強かったのか、男性の顔が驚愕の表情で硬直し手から紙片を落としてしまった。
その後すぐに硬直が解けたものの、男性は紙片を落としたことなど覚えていないかのように落ちたそれには目を向けず、まだ座り込んで泣いている女性を宥めつつもゆっくりと立たせる。
「どうもご迷惑をおかけしました。もしその人物が来たら、その連絡先を渡して連絡してくれとだけ言っていただけませんか? もし受け取ってもらえなければ、そのまま破棄してください」
女性を立たせた男性は、謝罪しつつもう一度水瀬に伝言を頼んだ。
「分かりました。ご伝言お預かりいたします」
「では、よろしくお願いします。…………さぁもう出よう、ここで泣いてもお店のご迷惑になるだけだから……」
水瀬の返答に満足したのか男性は水瀬に一礼をしつつ、女性の肩を抱きかかえるようにして店を出て行った。
それから幾らかも経たないうちに火置が店に入ってきた。
夕飯の買い物を済ませて帰ってきたところらしく、いろいろ入ったレジ袋を両手に提げていた。
「おい水瀬、なんかカップルらしき人等が出て行ったけど何かあったのか? 女の人は泣いていたし……」
「ああ火置か、お帰り。さっきの人達か……。ああ、お前2ヶ月ほど前にお釣りがいるいらないで軽く揉めたお客様がいただろ、あの人を探しに来たんだよ」
水瀬の返事に火置は何かを思い出したように頷き、次の瞬間に床に白いものが落ちていることに気付く。
「ああ、あのお客さんの……。ん? 何だこれ」
「あ! 待て、それはあのお客様の……!」
水瀬が火置を制止しようとするがすでに遅く、火置が紙片を拾い上げ中身を見てしまった。
「うわぁ、なんだよこれ……。ちょっとお前も見てみろよ」
中身を見た火置が、信じられないもの見たような顔で紙片を水瀬へと差し出す。
「おいおい、お前なぁ、それお客様のだって言ってんのに……。で、何が書いてあるんだ?」
「見りゃわかるよ……」
本来店員がそういったものは見てはならないという不文律のようなものがあるのだが、火置が見てしまった事とその後の彼の顔色から水瀬はしょうがないという風に紙片を受け取り目を通す。
その中身を見た途端、水瀬は何かに許しを請うように天を仰ぎ、あの客にカクテルを出したことを心底後悔した。
それからしばらく2人は黙々と開店作業を進め、その最中不意に水瀬が火置に声をかける。
「火置、悪いが今晩店を閉めたらちょっと一杯付き合ってくれないか」
「ああ、いいぜ。……ああ、すまんがまたスーパーへ行ってくるわ。ちょっと買い忘れたものがあったのを思い出してよ」
「ん? そうか。んじゃ気を付けてな」
「おう」
火置は水瀬からの誘いに気軽に頷くも、その直後に何か思いついたようにまたスーパーへ行くと告げ、
水瀬は水瀬で要るものは揃っているのに何故、と思いながらも敢えて何も言わず彼を送り出した。
それから10分もしないうちに火置が帰ってきたが、先に家に寄ってきたのか手に買い物袋がなかった。
「ああ、お帰り。あれ? 何も持ってないけど、何を買いにいったんだ?」
「ん、まぁ、ここで使うものじゃないから家に置いてきた。遅くても明日の朝には分かるさ。さあ、開店準備を続けようぜ、ぐずぐずしてるとお客さんが来ちまうぜ」
火置は言うだけ言ってカウンターの拭き掃除を始め、水瀬もまあいいかと先程までの作業の続きを再開した。
午前零時前、店を閉めた2人はバーのカウンターで並んで座る。
2人の間にはちょっと高めなウィスキーのボトルとアイスペール、肴にナッツ類と火置が家で作ってきた鶏の唐揚げが並んでいた。
「本日もお疲れ~」
「ああ、お疲れ様」
火置の音頭でグラスを鳴らす2人。
最初の一言から以降何も言わず飲み続ける水瀬に、火置が話を促すように話しかける。
「で、今日はどうした? ていうか、大体の見当は付くけどよ」
「いや、な……。お前も見ただろ、あれ。おそらく女の人の方は、あのお客様の娘なんだと思う。そんな自分の家族に対して、何をされたらあれだけ憎めるものかなって。それで、自分の出したカクテルが、お客様のそんな感情を引き出してしまったとしたら。さすがにそう思うと、なんかやりきれなくなってね……」
話の間中酒も飲まずただじっと聞き役をしてきた火置だったが、水瀬が再び口を閉じると唐揚げを一つ口に放り込みちびりとウィスキーを飲んだ。そして唐揚げを飲み下すと、また水瀬の方を向き口を開く。
「バカかお前。それとも俺が知らなかっただけで、実はちょいと傲慢な人間だったのか?」
「なっ……!」
火置の言いように、水瀬はいきり立って勢いよくスツールから腰を浮かせる。
「まあまあ、気持ちは分かるが人の話は最後まで聞くもんだ。な、とにかく座れよ」
しかし全然動じていない火置の態度に、水瀬は思い切り渋面になりながらもまた腰を下ろした。
火置は水瀬が腰を降ろすと、よしとばかりに頷いて口を開く。
「アルコールってのはよ、身体の反応を鈍くするんだ。んで身体と心ってのはそれぞれ独立したもんじゃない、互いにバランスを取り合っていて、片方が落ち込めばもう片方が引き摺られる、そんな関係なんだ」
ここで火置はいったん口を閉じてグラスの酒を軽く仰ぎ、水瀬の方を向いてまた口を開いた。
一方の水瀬は、火置が何を言いたいのかさっぱり分からずさっきの渋面のままだったが。
「何が言いたいかっていうとだな、身体が鈍れば心もまた然り。心の奥底で蓋をした感情も、心が鈍ればその蓋も弛もうってもんだ。今回の場合はその弛んだ蓋から、一番強い感情が出て来たに過ぎねぇよ。あの客はお前が連れて来たんじゃなく、自分で来てアレを頼んだ。言ってみれば、あの客は自分でそうなる運命を選んだんだよ」
「……いや、しかし」
火置が言外に"お前は悪くない"と言っているのに対し、水瀬はそれを否定するかのように困ったような顔になって言葉を濁す。
「ああ、もうっ! しかしもカカシもねぇ、お前何様だよ!? お前は酒で人が救えると思ってんのか!? お前の仕事は客に酒を出すことであって、人の悩みを解決してやることじゃないんだぜ。それにな、大抵の奴が勘違いしているようだから言っておいてやる。人が救えるのは、本当は自分自身だけなんだ。誰それに救われたって話もよく聞くけど、あれは助かりたい奴が目の前にあったモノにしがみついた結果助かったに過ぎないんだぜ。……まぁ、感謝するしないはその人の自由だけどよ」
「…………」
さすがに長い付き合いである火置も水瀬の態度にイラつき、その感情をそのまま彼にぶつけてしまう。
しかし今度は水瀬も何か感じるところがあったのか、表情こそ変わらないが黙って自分のグラスに目を落としていた。
「まぁ話が長くなったがよ、結局のところお前は何も悪くないんだ。では誰がと言っても誰も悪くはない、ただ巡り合わせでこうなっただけなんだよ」
「ああ、そうかな。そういう事なのかな……。」
水瀬の一言に何とか彼の気持ちが上向いたことを見て取った火置は、表に出さないようにホッと息をつきグラスを掲げた。
「そうだよ。お前が気に病むことなんて何もねぇんだよ。さあさあ、辛気臭い話はここまでにしてとにかく飲もうぜ。ほら、再度乾杯だ」
「ああ、そうだな。じゃ、乾杯!」
2人は再びグラスを鳴らし飲み始める。しかし今度は水瀬もある程度は切り替えができたのか、彼らの間に暗い空気はもう漂っていなかった。
それからしばらく、水瀬がウィスキーが無くなれば秘蔵の大吟醸やほかの酒類を出せば、火置は火置で様々な材料を使ってその酒に合う肴を作ったりと、先ほどまであった2人の間の嫌な空気をまとめて吹き飛ばそうとするかのように杯を交わしていった。
そして次の日の朝、2人は二日酔いの頭を抱えつつ、こうなることを予想していた火置の手によるしじみの味噌汁を互いに苦笑しながら啜るのだった。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
また、次の話でお目にかかりましょう。では。
あ~、もし宜しければ、感想やブックマーク、並びに評価をお願いしますm(._.)m
気が向いた、もしくはこの作品が気に入ったと思う方で結構ですので。
2018/ 5/26 地の文やセリフを一部修正。
2018/ 6/26 地の文を一部修正。
2018/ 9/12 地の文を1行追加。
2019/ 7/11 一部の語句にルビを追加。
2020/ 3/29 冒頭の一部を切り取り、前半に移設。