とある神の話Ⅱ
とある神がいた。
気まぐれに世界に現れ、気まぐれに人の望みを叶えていく、そんな神。
鴉を連れた彼は、世界を渡り歩く鳥のよう。
そして、今日もまた漆黒の神は世界に降り立った。
夜空を、立ち昇る炎が赤く照らしていた。燃える村を背に、暗い森の中を少女は走っていた。
少女は、村が信仰する神が住まう神殿の巫女だった。村は神に守られ、平和に暮らしていた。
しかしある時、村の者ではない不届き者が神殿に盗みに入り、神の怒りを買った。
そして、森の動物たちが一斉に村を襲ったのだ。村は燃え、多くの村人が犠牲となった。だから巫女である少女は、神の怒りを鎮めるために森の神殿へと向かっているのだ。
神殿へと辿り着いた少女は、その前に黒い影を見つけた。
それは、狼の姿をしていた。しかし、少女の知っているそれより遥かに大きく、そして燃えるような怒りを孕んだ紅の瞳を持って少女を見ている。
少女は、直感的に悟った。その影こそ、村人たちが祀っていた神の怒りの姿なのだと。
「神よ、どうかお怒りをお治めください!村の者たちは今も、貴方を神として讃え、感謝を捧げているのです!」
少女は影に向かって膝をつき、必死に訴えた。
だが、その訴えは神には届かなかった。
影は咆哮し、少女へと飛びかかった。少女は死を覚悟し、目を閉じる。
しかし予期した衝撃はなく、むしろ獣が苦痛に吠えるような聞こえた。驚いて少女が目を開けると、目の前に影が倒れておりその体には美しい剣が一本突き立っているのだった。
それから、
「神の怒りを買うとは、お前も大変な運命を背負ったものだな」
そんな声が聞こえ、一人の青年が倒れる影の向こうに姿を現した。
漆黒の染まった服。闇色の髪に金色の瞳を持った、大層美しい青年だったその肩には、片目に傷を負った大きな鴉が止まっている。
「貴方、は…?」
「さて、何だと思う?」
問いを返され、少女は目の前に倒れる影へ目を向けた。
昔、前の巫女であった母から聞いたことがある。神を殺せるのは同じ神だけである、と。
ならば、この青年は。
「…貴方も、神なのですか」
「かもしれないな。まぁ、そんなことは今どうでもいいことだ。娘よ、平和な日々を再び取り戻したいと望むか」
「取り戻せると、言うのですか」
青年の問いに、少女は声を震わせた。
「代償を払うのならば、な」
「その、代償とは」
笑みを浮かべた青年は、倒れている影を見下ろす。
「これは、お前たちの祀っていた神が、村を守るために様々な厄災をその身に抱え、不浄に染まった姿だ。今回のことは切っ掛けがあり、起こったことにすぎない。いずれ、切っ掛けがなくとも、この神は暴走を始めただろう」
「そんな…」
「死んだ神は、再びこの地に生まれる。全ての不浄が浄化された姿で、だ。その神が抱える不浄を、暴走する前に浄化する力をお前に与えることが出来る」
そこで青年は再び、少女を見た。
「娘よ、お前が毎日一度、一日も欠かさずこの神殿で祈りを捧げることで神の不浄を浄化するというのなら、滅びた村を以前の姿を蘇らせてやろう」
「死んだ命を蘇生させると?」
「いや、時間を巻き戻すだけだ」
短く答え、青年は少女に覚悟を問う。
「お前は誰とも添い遂げることなく、神と共にその命尽きるまでこの地を守り続ける覚悟があるか?」
女として生きることを諦め、巫女として運命を変えて戻ってきた村を守り続ける。
差し出された選択肢を、少女はその瞳に決意の光を湛えて迷いなく選び取った。
「それで村の人たちを取り戻せるのなら、この命尽きるときまで祈りを捧げ続けます」
青年は少女の答えに、満足げな笑みを浮かべる。
「いいだろう、お前の望みを叶えてやる」
「本当ですか⁉」
「あぁ、お前は神殿の中にいろ。そして、夜が明けたら祈りを捧げてから出て来るといい。いいな、夜明けまで神殿を出てはいけない」
「はい」
少女は頷くと、神殿の中へと入って行った。それを見送る青年の背に、漆黒の翼が広がる。そして彼は、空へと上がって行ったのだった。
夜が明け、祈りを捧げた少女は神殿を出て、村へと向かっていた。
青年の言葉を信じていない訳ではなかった。だが、不安は確かに少女の中にあった。
一刻も早く村へ。
少女は、村へと駆けて行った。
やがて、村が見えてきた。燃え落ちたはずの村は、何事もなかったかのようにいつもの姿を見せていた。
「あぁ…、村が」
村の入り口までやって来た少女は、喜びの涙を流す。
戻って来たのだ、少女の愛する村が。この村を守れるのなら、少女は自分に課せられた義務を果たすことをけして苦には思わない。
自分の選んだ道を、けして後悔はしないだろう。
少女は、村を救った名も知らぬ神に感謝の祈りを捧げたのだった。
その神は、気まぐれだ。
降り立つ世界も、望みを叶える人間も。全て気まぐれに選択し、その覚悟を問う。
世界を渡り歩く、美しい青年姿の神。
これは、そんなとある神の話。